ショパンの指先
わざわざ聞くのも気が引ける。

 名前を聞くことを失礼だと思ってではない。初対面なのだから、問題ないだろう。

 そうではなく、聞いてしまったら名前で呼ばなければいけなくなることが、私の気持ちを億劫にさせたのだ。

 甘えた声で「○○さぁん」なんて呼ぶ気にはなれなかった。

 呼んだら男は更に調子にのって、態度が大きくなるだろう。

 まあいい。一日くらいなんとかなるだろう。

 私は前を歩く男を『男』と呼ぶことに決めた。男以外の何者でもないから。

 我が物顔でアマービレに入る男。店員に対する態度も悪い。

 こういう些細な所も私の癪に障る。

 男は両足を広げて座り、「とりあえず生で」と言った。

 居酒屋じゃないのだから、と呆れてしまう。

「杏樹サンは?」

 男が顎を前に突き出し、私に尋ねる。

「ビアスピリッツァーで」
「なんすか、それ」
「白ワインをビールで割ったカクテルよ」
「へえ、オシャレですねぇ。それある? ビアスピなんちゃらっていうの」

 店員は男の言葉に軽く頷いた。

 私がちょっと気を使って、ビールを使ったカクテルを頼んだことに、この男は気が付いているだろうか。……絶対気が付いてないな。

 乾杯して食事が運ばれる。

 私が下を向きながら食事をしていると、「あんまり喋らないんですね」と男が言った。

 私は頬をピクピクさせながら、答えずに微笑を浮かべた。
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