ショパンの指先
私を大人しい女だと決めつけたのであろう、男は私の微笑みに満足したようだった。

 喋らないのではなく、喋りたくないのだ。

 口を開けば男を非難する言葉が溢れてきそうだった。

「その食べ方は何? 音を立てて食べないで。そんなにガツガツ口に放り込まないで、もうちょっと私のペースを見ながら食事してよ」

 言いたい言葉をビアスピリッツァーで飲み込む。

 まあいい。洵に会えれば……。

男のよく分からない自慢話を聞いているふりをしながら、私はひたすらに洵を待った。

 すると、照明が少し落とされた。

 男は会話を止めて、暗くなった店内を不思議そうに見渡した。

洵が来る!

 私の胸は期待と興奮で膨れ上がっていた。

 細みのダークブラウンのスーツを颯爽と着こなした洵がピアノの椅子に座る。

 両手をぐっと上げて、ジャケットの袖の位置を調節した洵は、ピアノの鍵盤に指を乗せた。

 ライトが洵を照らす。

 息を飲むほど、美しい横顔だった。

 洵はいつものように、一曲目に革命のエチュードを弾いた。

 息苦しくなる程の迫力だった。

 一曲目が終わり、拍手が湧き上がる。

 洵は拍手が鳴り終わる前に2曲目を弾き出した。

「おいおい、もう始めちゃったよ」

 男が声のトーンも考えずに言った。

「しっ! 静かにして!」

 私に咎められ、男はムっとした表情を見せた。

 ああ、やっぱり洵の曲は素晴らしい。何度聴いても飽きない。
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