ショパンの指先
 私は、仕事と客をそっちのけで洵の演奏に聞き惚れた。

 私があまりにも洵ばかり見ているので、男はどんどん不機嫌になっていった。

 それは私にもわかってはいたのだけど、今は洵の方が百万倍も大事だから無視した。

「なあ」男が怒った様子で話し掛ける。

「しっ、後にして」
「後っていつだよ」
「曲が終わったらよ」
「曲が終わったらって、あいつすぐに演奏始めるだろうが」
「いいから静かにして!」

 男はムスっとしたまま黙りこみ、私の顔を睨みつけるように見ていた。

 私はようやく洵の曲に集中できると思って、男から顔を逸らし、洵の演奏をうっとりと見詰めていた。

 すると突然、男はナプキンをテーブルに叩きつけた。

「バカにするのもいい加減にしろ!」

 男の怒声が店内に響く。

「俺を舐めてんのか?」
「舐めてなんかいないわ。一体どうしたっていうの?」
「好きな男を見たいなら一人で来ればいいだろが。そんなに夢中になる男がいるのを見せつけられたらしらけるんだよ!」
「別に好きなわけじゃ……」

 自分で言いかけて、言葉尻が沈んでいった。

 好き? 私が洵を?

 これは好きという感情なの?

 私の様子に男は益々怒りを募らせる。

「もういい! 俺は帰るぞ!」

 男は立ち上がった。
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