ショパンの指先
 店内にいる客やスタッフが心配そうにこちらを窺っている。

 ピアノの音色は止まらない。

「有村に報告するからな! お前のお気に入りがピアニストにご執心で仕事をする気なんてないってな!」

 男は吐き捨てるように言って、ドカドカと足音が聞こえそうなほど体を左右に揺らして歩いて行った。

 一人取り残された私は、店内にいる人々の視線を独占していた。

 しかし、すぐに客もスタッフも見なかったふりをして食事や仕事を始めた。

 気にしていないふりをしていても、頭の先はしっかりと私の動きを捉えている。

 この後、あの女はどうするのだろう。

 帰るのか、一人で食事を続けるのか。

 きっと帰るだろう。帰る時はどんな顔で帰るのだろう。

 皆の心の声が聞こえてくるようで、私はうんざりした。

 ふと檀上を見ると、曲目がちょうど終わったところだった。

男があんなに大きな声で怒鳴っていても、洵は演奏を止めなかった。

 せっかく弾いてくれていたのに、申し訳ないことをしたなと思った。

 洵は立て続けに弾いていた曲をようやく止めて、ピアノの上に置いてあった白いハンカチで手を拭いていた。

 その時、私と目が合った。

 洵は堪え切れないのか、私の顔を見た瞬間に含み笑いをした。

 笑いごとじゃないわよ。

 私はテーブルに肘をつき、空いている手を肩の高さくらいまで持ち上げて、水平に手の平を広げて口をすぼめて見せた。

 アメリカ人がよく「やれやれ」と言いながら呆れ顔を浮かべるポーズだ。

 洵はそんな私を見て、堪え切れなくなったのか、白い歯を見せて笑った。
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