ショパンの指先
私はキッチンに行って、お湯を沸かし、コーヒーを作った。長い夜になりそうだと思ったからだ。

 有村専用のマグカップにたっぷりとコーヒーを注ぎ、テーブルに置いた。

 有村はできたてのコーヒーを黙って飲む。3口目を飲んだところで、有村が口を開いた。

「杏樹の尻拭いをするために、今まで菅井さんと飲んでいたんだ」
「菅井?」

 私の問いに、有村の顔が歪んだ。

「杏樹が怒らせた今日の客だ」
「ああ」

 有村のこめかみがピクピクと動いた。しかし有村は、怒ることなく淡々と今日あったことを語り出した。

 菅井さんは、今度有村がイラストを頼まれた業界紙の校閲を担当している人らしい。

校閲とはいっても、菅井さんは編集者ではないので、文章の乱れをチェックしているわけではない。今回有村が手を出そうとしているのは、風俗専門誌や暴力団、ヤクザものを扱っている専門誌で、これはマイナーだけれども一定の需要があるオイシイ仕事だ。

しかし、この分野は特殊で、組織名や役職、階職名や稼業名といったものがあり、うっかり序列を間違えて、上の者より下の者の方が大きく誌面に載せたりすると、ややこしいことになるのだ。その他にも、注意すべき所が様々あり、ヤクザ業界に詳しい人に校閲を頼まなければやっていけないのである。

有村はイラストを担当するが、そのイラスト内に、うっかり彼らの逆鱗に触れるようなものを描いてしまう可能性もある。その為、菅井さんという存在は、この仕事をしていく上で、ぜひとも味方につけておきたかったらしい。

また、ここで認められれば毎月数社から仕事を頼まれるようになる。
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