ショパンの指先
有村に促され、淹れたてのコーヒーを啜る。私が淹れたコーヒーよりも数倍美味しい。豆は一緒のはずなのに、どうしてこんなに違うのだろう。

「ああ、俺そろそろ会社に行かなくちゃ。杏樹はゆっくり食べていいからな」

 そう言うと有村は、椅子にかけられたジャケットと鞄を持って慌ただしく立ち上がった。

 ああ良かった、ようやくいなくなる、と思ったら、玄関まで行った有村が「あっ忘れ物した」と言って戻ってきた。

 何を忘れたのだろうと思ったら、私の唇にキスをしようとしてきたので、私は顔を横に向けて避けた。

 一瞬、有村の眉間に皺が寄り、あからさまに機嫌を悪くしたのが伝わったけれども、有村はすぐに笑顔になって、私の頬にチュッと音が鳴るキスをした。頬は避けられなかった。

「いってきます」

 有村にしては珍しい爽やかな笑顔だった。

「……いってらっしゃい」

 私は小声で言った。それでも有村には十分満足だったようで、鼻歌を口ずさみながら出て行った。

 私はどっと疲れて、背もたれに寄りかかった。

 有村はまるで、DV男のようだと思った。殴って怒って、次の日にはとびっきり優しくなる。

 有村とずっと一緒にいたら、いつか殴られるかもしれない。昨日の行為だって、あれも立派な暴力だ。離れた方がいい。離れなければ。ボロボロになる前に。

 いや、もうボロボロかもしれない。

 逃げなきゃ。有村から遠い所に。

 ……でもどこに? どこに逃げればいいの?

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