ショパンの指先
もう洵には会わない方がいい。そう思っていても、クラシック音楽を聴くたびに洵の演奏を思い出してしまう。

しばらく音楽を聴くのをやめようと思っても、クラシック音楽は予想以上に身近な生活に広まっていた。

例えば、CMで器用されているクラシック音楽。ふと耳に入るたびに、洵の演奏姿が浮かんでしまうのだ。

筋張った長い指先。浮き出た血管に、男らしい手の甲。縦横無尽に滑らかに動く十本の指。そして、演奏中の真剣な横顔。

洵に会いたい。

どうしてこんなに洵のことを思い出してしまうのか分からない。

洵の演奏を聴きたいことはもちろんだけれど、洵に会いたい。

一目だけでも会いたい。遠くからでもいい。

洵に会いたい。


気が付いたら、寝まきにコートを羽織っただけの姿で家を出ていた。

営業時間終わり、運が良ければ洵を見られるかもしれない。こっそり一瞬見るだけなら有村にも分からないだろう。

私は寒空の下で洵を待っていた。

従業員出入り口から次々と人が出てくるたびに私の胸は高鳴った。

ドクンと膝が震えるほどの緊張の後、出てきた人物が洵ではないことが分かると、一気に肩が落ちた。萎んだ花のように丸く小さくなる。

私の存在に気が付いた従業員が怪訝な表情で私を一瞥する。それでも何食わぬ顔をしていると、その後は特にジロジロ見られることはなかった。

星の降るような夜空を見上げる。寒くて、身体が小刻みに震えだした頃、従業員専用扉から、待ちに待っていた人物が現れた。

洵を一目見るために待っていたのに、私は緊張してしまって、とっさに生垣に隠れた。
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