ショパンの指先
 私はカーペットに横になってわざとらしく寝息をたてた。静かな部屋の中に、私のたぬき寝入りの音だけが響き渡る。

「……杏樹」

 溜息を零すような、小さな優しい声で呼ばれた。

 思わず胸がきゅっと締め付けられるように高鳴ったけれど、私は意地でも起きてやるものかと思った。

「そんな所で寝たら風邪ひくぞ」

 もちろん、無視。

 すると洵は小さくため息をついて、寝ているふりを続ける私をお姫様抱っこした。

 私は驚きながらも、自分からたぬき寝入りを始めた手前、寝ているふりをやめることができない。

 洵はそのまま私を抱きかかえ、別室のベッドに私を横たわらせた。

 そして洵は、優しく私に布団をかける。その間も、私は目を閉じていた。目を開けるタイミングを完全に見失った。

 洵は私の髪を優しく撫で、おでこに軽いキスを落とした。私の心臓ははちきれんばかりに高鳴っている。

「おやすみ、杏樹」

 慈しむような優しい声色だった。

 洵はそのままパタンと音を立て、扉を閉めて行ってしまった。洵が行ったことを確認してから目を開ける。暗い寝室。ベッドからは洵の匂いがする。

 私は布団を固く握って締め付ける切なさに胸が苦しくなった。扉の向こうからは、優しいピアノの音色が聴こえてきた。

 バラード第3番。温かい音色なのに、なぜだか涙が溢れてきた。洵のことが好きすぎて苦しい。とても近いところにいるのに、洵には見えない壁があって、私を受け入れてはくれない。それなのに、こんな風に優しくされたら、もっともっと好きになってしまう。

 切なくて苦しいのに、今とっても幸せで。側にいられるだけで嬉しいのに、それだけじゃ満足できない欲深い自分もいる。

 洵の気持ちが、見えるようで見えない。洵が近いようで遠い。

 この気持ちを、私はどう処理すればいいのだろう。


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