ショパンの指先
 目が覚めると、腕の中に杏樹がいた。

 いつの間に抱きしめて眠っていたのだろう。久しぶりに深い眠りにつけた。短時間だが、よく眠れた。

「おーい、ストーカー女」

 耳元で呼びかけても、うんともすんとも言わない。

 こいつは初日もそうだった。床で眠ったまま、どんなに呼びかけても起きる気配がなかったので、そのままにして家を出た。どうやら杏樹は寝起きが悪いらしい。

 杏樹の額を、コツンと指で弾くと、杏樹は眉間に皺を寄せて子供みたいに布団に顔を押し付けた。そしてまた、気持ちよさそうに寝息をたてる。

「そんなに無防備だと、襲っちまうぞ?」

 言いながら、ため息が出た。

 そんなことはできないからだ。襲いたくても襲えない。襲うことが論理的に許されない行為だからとか、そんな道徳的な感情ではなく、杏樹を抱いてしまったら張りつめていた糸が切れそうで怖かった。そしてその糸はピアノ線と繋がっている。糸を切ってしまったら、ピアノが弾けなくなる。

 俺は起き上がり、メモ帳を一枚引き剥がした。合鍵を横に置きペンを走らせる。

『出掛ける。鍵は玄関ポストに入れておけ』と書いてから、じっと自分で書いた文字を見つめる。

 しばらく悩んでその紙は破いてゴミ箱に捨てた。テーブルには、新しく書いたメモを置いておいた。

 新しいメモには『合鍵だ。好きに使え』と書いておいた。
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