ショパンの指先
午前10時。出社ラッシュを終えた電車は空いていた。

 座席に腰かけながら、見慣れた風景が横に通り過ぎていく。二駅を過ぎた所で、電車から降りた。足は自然と目的地へと俺を誘導する。

 歩きながら、俺はさっき書いたメモのことを思い出していた。

 合鍵をよく知らない女に渡すなんてどうかしている。俺は杏樹をどうしたいのか。自問自答を繰り返しても、答えは見つからない。いや、本当はとっくに見つけている。自分の心の声を塞いで聴こえないようにしているだけだ。

 杏樹を初めて見た時、純粋に綺麗な女だなと思った。杏樹は一目を惹きつける容姿を持っている。多くの男が杏樹を見るように、俺もピアノを弾きながら視界の隅でチラリと見ただけだった。強力な磁石のように惹きつけられたのは、杏樹が俺の演奏を聴きながら一心不乱に絵を描いている姿を見た時だった。

 頭の奥が痺れた。感性と感性が触れ合った瞬間だった。杏樹は他の女とは違う。見ている世界が違う。俺の弾くピアノの中に感受性の鋭い芸術家にしか伝わらない独自の世界を見ていると思った。

 杏樹は周りの目を一切気にすることなく、何かにとりつかれるように手を動かしていた。何を描いているのかは見えなかったが、杏樹から放たれる独特のオーラは、俺の感性を刺激した。

 俺にとってピアノは、かけがえのないものである一方、息苦しく辛いものでもあった。なんのために演奏しているのか、誰のための練習なのか、ピアノのために色んなものを犠牲にしてきた。今はようやく目標ができて、ピアノと真っ直ぐに向き合えるようになったけれど、やはりどこかで辛い記憶が呼び覚まされるものでもあった。

ずっと孤独だった。ピアノを弾いている間は、特にそうだ。より上手くなりたいとのめり込むほど、孤独になる。この辛さは、当事者にしか分からないだろう。ただひたすらに、自分と戦い続けなければいけないのだ。

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