ショパンの指先
しかし杏樹が絵を描いている間、一緒に演奏をしているようだった。一緒に同じ世界に入り込んだかのようだった。すっと気持ちが楽になった。演奏を楽しむことができた。ただ純粋にピアノを弾いているだけで楽しかった子供の頃のように。コンクールも演奏技術も考えないで弾けた、あの頃のように。
杏樹を初めて家に入れたあの日。女なんて面倒くさいから関わらないようにしていたのに、気が付いたら受け入れていた。
拒絶しないといけないと頭では分かっていたのに、杏樹の歩幅に合わせて、杏樹がついてきやすいように歩いていた。
玄関のドアを開けた時、杏樹が目の前にいて、その姿を見た瞬間、手を取って抱きしめて、無理やり家に入れたい欲求にかられた。それを押しとどめたのは、いくばくかの俺の理性。ピアノを失いたくない、心の怖れ。
杏樹が店に来なくなった数日間は、真綿で首を絞められるような、じりじりとした圧迫感に包まれて心ここにあらずの状態だった。どうしてこんな気持ちになるのか。どうしてこんなに会いたかったのか、俺はその時はよく分からなかった。
あの心地いい感覚に浸りたいだけだと思っていた。でも、杏樹に「好きよ」と言われた時、自分の感情の正体に気が付いた。
ああ、そうか。これが恋というものなのか。理性で必死に止めようとして溢れ出てくるもの。この感情を言葉で表すと、恋になるのか。
妙にストンと胸に落ちた。でもそれを杏樹に伝えることはできない。
嫉妬深いあの女(ひと)を怒らせたら、俺の夢は断たれてしまう。
今まで積み上げてきたものも、血反吐を吐くような練習も、あの時決めた俺の決意も、いとも簡単に水泡に帰すだろう。それに何より、本当は寂しがり屋で心の弱いあの人を傷つけてしまう。
こんなによくしてもらっているのに、恩を仇で返すような真似はしたくない。
杏樹を初めて家に入れたあの日。女なんて面倒くさいから関わらないようにしていたのに、気が付いたら受け入れていた。
拒絶しないといけないと頭では分かっていたのに、杏樹の歩幅に合わせて、杏樹がついてきやすいように歩いていた。
玄関のドアを開けた時、杏樹が目の前にいて、その姿を見た瞬間、手を取って抱きしめて、無理やり家に入れたい欲求にかられた。それを押しとどめたのは、いくばくかの俺の理性。ピアノを失いたくない、心の怖れ。
杏樹が店に来なくなった数日間は、真綿で首を絞められるような、じりじりとした圧迫感に包まれて心ここにあらずの状態だった。どうしてこんな気持ちになるのか。どうしてこんなに会いたかったのか、俺はその時はよく分からなかった。
あの心地いい感覚に浸りたいだけだと思っていた。でも、杏樹に「好きよ」と言われた時、自分の感情の正体に気が付いた。
ああ、そうか。これが恋というものなのか。理性で必死に止めようとして溢れ出てくるもの。この感情を言葉で表すと、恋になるのか。
妙にストンと胸に落ちた。でもそれを杏樹に伝えることはできない。
嫉妬深いあの女(ひと)を怒らせたら、俺の夢は断たれてしまう。
今まで積み上げてきたものも、血反吐を吐くような練習も、あの時決めた俺の決意も、いとも簡単に水泡に帰すだろう。それに何より、本当は寂しがり屋で心の弱いあの人を傷つけてしまう。
こんなによくしてもらっているのに、恩を仇で返すような真似はしたくない。