ショパンの指先
遠子さんは俺の世話をするのが心底嬉しいようで、笑顔でキッチンへ入っていった。

 遠子さんは俺のことを、本当はどう思っているのだろうと時々不思議になる。遠子さんには夫がいるが長い間セックスレスだという。

遠子さんの夫は複数のホテルの経営者で、ガーネットホテルも遠子さんの夫の管轄だ。ホテル内のレストラン経営もしているので、アマービレのオーナーは遠子さんの夫ということになっているが、店舗を貸し出しているだけで店の経営は店長に任せっきりで、遠子さんの夫は店に顔を出すことすらない。

 俺にアマービレを紹介してくれたのは遠子さんだった。二年前、金もなく人生に生きがいを失くしホームレス状態だった俺に職を与え、住む場所を提供してくれた。そして週に何回か遠子さんの家で有名なピアノ講師をつけさせてもらっている。

 夫に内緒で俺を家に出入りさせ、ピアノ練習の資金援助までしてもらっている。ヒモのような存在でありながら、俺と遠子さんとの間に身体の関係はない。

 俺が遠子さんにできることは、身体の寂しさを埋めることだけだと思って、一度だけベッドに遠子さんを押し倒したことがあった。その時遠子さんは、仰向けになりながらも、俺の胸板を片手で押し返した。

「違うの、そういうことをしてほしいわけじゃないの」
「じゃあ、どういうことをしてほしいんですか? 俺にはこんなことくらいしかできない」
「私の側でピアノを弾いてくれるだけでいいの」
「それだけでいいんですか?」
「ええ、と言いたいところだけど、もう一つだけ約束してほしい」
「俺にできることなら」
「私とも寝ない代わりに、他の女の人とも寝ないで。私だけの洵でいて」

 遠子さんは真っ直ぐに俺を見つめた。一見、物分りのいい大人の女性のように見えるけれど、本当はとても嫉妬深いのかもしれない。俺を鋭く見つめるその瞳に、ほんの少しゾクっとした寒気を覚えた。
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