ショパンの指先
「いいですよ。俺はピアノが弾ければそれでいい」
「約束を破ったら、私は一切の援助をやめるわ。それでもいい？」
「いいですよ」

　俺の心理を見通すように、隙のない目で俺を見つめていた遠子さんだったが、俺が本心から約束したのを感じ取ると、ふっと優しい表情に戻った。

「好きよ、洵。あなたのそういう優しいところ、真面目なところ。私を決して裏切らないでね。私だけのものでいて」

歪んだ愛情なのか、プラトニックな真実の愛を求めているのか、それとも母のような想いなのか。遠子さんの俺に対する特別な思いは、俺にははっきりと理解することができなかった。

　ただ一つ言えるのは、俺には遠子さんを拒絶することはできない。遠子さんがいなければ、俺はピアノを弾き続けることはできないからだ。またあの地獄の生活に逆戻りだ。

　もしも遠子さんの気が変わって、抱いてくれと頼まれたら、俺は迷わず抱くだろう。例えそれが道徳的に許されない不倫という形であっても、俺はピアノを弾きたい。いつか地獄に堕ちたとしても、ピアノがない地獄よりは何倍もマシだ。

　遠子さんの作ったゴルゴンゾーラパスタを食べ、俺は先生が来るまでにピアノの練習をしていようとピアノの椅子に腰かけた。遠子さんは猫を抱きかかえてピアノの近くの椅子に座ったけれど、猫はスルリと遠子さんの腕から離れて部屋から逃げていった。

遠子さんの猫はピアノの音が嫌いなのである。これから演奏が始まることを敏感に感じ取って、いち早く逃げたというわけだ。

「ねえ、蝶々弾いて」

　遠子さんが猫撫で声で甘えるように言った。

「好きですね、蝶々」

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