ショパンの指先
「練習にはちょうどいいじゃない」
「ちょうど良くないですよ。短い曲ですけど、速くて指がつりそうになるんですよ」
「でも私、あの曲可愛らしくて好き」
「分かりました。蝶々みたいな遠子さんのために弾きます」
「あら、私が可愛らしいって意味?」
「ちょっと違います。軽やかで綺麗に聴こえるけど、弾いてみると、これが厄介で難しい」
「けなし言葉だったのね」

 遠子さんは頬を膨らませた。もうすぐ38歳になるというのに、随分と幼い怒り方だと思うが、なんだか妙に合っているから不思議だ。嫌な気分になるどころか、可愛らしく見えて、俺はその顔に笑いを誘われた。

「いいえ、褒め言葉ですよ」

 俺が蝶々を弾き出すと、遠子さんは嬉しそうに目を閉じて、首を左右に振りながら聴いていた。

 憎めない人だ。俺は心の中で呟き、知らずに頬を緩めながらピアノを弾いていた。遠子さんのことは恋愛対象として見たことはない。嫌いなわけでも、鬱陶しいわけでもない。女として見られないわけでもない。ただ、女性として好きかと問われたら、間違いなく答えはノーだ。

 俺は遠子さんに拾われて、再びピアノを弾くことができた。遠子さんには深い恩義がある。だから、遠子さんのお願いは可能な限り聞き続けたいと思う。

 ただ、「私とも寝ない代わりに、他の女の人とも寝ないで。私だけの洵でいて」と言われた時、見えない鎖に繋がれてしまっていたことに気が付いた。遠子さんに見捨てられれば、俺の夢は断たれる。ピアノが弾けなくなる。遠子さんに歯向かうことなんてできない。

俺は遠子さんの作った檻に入れられたのだった。
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