ショパンの指先
 そう気がついても、今までは特に困ってなどいなかった。ピアノが弾ければそれで良かった。でも今は、あの約束が俺を苦しめている。杏樹と出会うまでは生じなかった感情だ。

 好きな女が出来たからって、恩義ある人を裏切ることなんてできない。ましてや今、俺には確かな目標がある。

突然芽生えた甘い感情に揺さぶられて、一切を捨てることなんて愚かだ。杏樹の存在は邪魔でしかない。切り捨てなければいけないのは杏樹の方だ。それなのに、どうして、どうして突き放すことができない。

自分から合鍵を渡して、むしろもっと近付けようとしているではないか。どうしてこんなに惹きつけられる。どうして……。

蝶々を弾き終わると、遠子さんは「すごい、すごい」と乙女のように嬉しそうな顔で手を叩き喜んだ。そんな遠子さんの姿を見て、叩いていた遠子さんの手を取り、抱き寄せた。

キスもしない、身体も触らない。けれど、時々こうして抱き合う。遠子さんは、抱擁する時間が一番好きだという。

だから、その気持ちに応えたくて、時々遠子さんを抱きしめる。

遠子さんは嬉しそうに、俺の胸に頬を寄せ、背中に手を回した。

力強く俺を抱きしめるその手が、まるで鎖のように感じた。


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