ショパンの指先
鍵を閉め、男が入れないように密室空間に逃げ込むと、自然と吐き気は治まった。

「杏樹ちゃん?」

 男がドアの向かう側から心配そうな声で呼びかけてくる。

「ねぇ……もしかして、妊娠しているんじゃないの?」

 妊娠? するわけがない。私は毎日ピルを飲んでいるし、生理だって十日前にきた。それから十日間誰とも寝ていない。

「やっぱりそうなんだね」

 返事のない私に、男は勝手にそうだと判断したらしい。

「安心して。このことは誰にも言わないよ。今日はもう帰ろう」

 男の言葉に、悪魔の囁きが私に助言した。『これってラッキーじゃない? 男の勘違いに乗っかっちゃおーよ』

 私は殊勝な声を作り、ドア越しの男に聞いた。

「有村にも言わない?」

「言わないよ。今日は一晩杏樹ちゃんと一緒だったことにしてあげる」

 私は小さくガッツポーズをして、大きな鏡の前でか弱く可哀そうな女に見えるよう表情を作ってから鍵を開け、しずしずと洗面所から出てきた。

「約束よ?」

「ああ、もちろんだ」

 男は私の肩に背広からかけ「さあ、帰ろうか」と言って部屋を出た。

 エレベーター内で男は「こんなこと俺が言うのもなんだけど」と気まずそうに前置きをしてから「もうこういうことは止めた方がいい」と言った。

「やめたいけど、有村がやめさせてくれないの」
「事情を言えば有村君だって」
「言ったら無理やり堕胎させられるわ!」

 男は哀れむように私を見据えた。

「……だから、有村には何も言わないでね?」

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