ショパンの指先
「分かったよ」

 男はタクシー代まで払ってくれた。私はタクシーの運転手に、私の家の住所ではなく、洵の家の住所を告げた。男はホテルの前で、心配そうにタクシーを見送っていた。私はそれを窓から見つめながら、「これは使えるぞ」と内心ほくそ笑んでいた。


 洵の部屋の前のドアに立つと、うっすらとピアノの音色が聴こえてきた。洵のマンションは防音鉄骨マンションなのでピアノを弾いても近所迷惑になるというほど外に音が漏れるということはない。けれど、耳をそばだてれば聴こえてくる。その音は、心を揺さぶる不思議で強烈なフェロモンの漂う響きをしている。まるで、洵自身のような。

 私は貰った合鍵でドアを開けると、靴を揃えることなく脱ぎ捨てて、洵がいるリビングへと真っ直ぐに向かった。

 洵はチラリと私の存在を確認すると、すぐに楽譜に目を移した。洵はいつだってピアノが一番だ。ピアノの前では私はいつもないがしろにされる。でもそれが心地良かったりもする。私の顔色を見て、私に迎合する男なんて興味がない。

 私はピアノの横に勝手に作ったアトリエスペースに腰をかけた。アトリエスペースとはいっても、イーゼルにキャンバスを乗せて、椅子を置いただけだ。

床にはパレットや油絵具や筆と数冊の本を置いても一畳にも満たないほどのスペースだ。それでも最初は洵にとても嫌な顔をされ、散々文句を言われたが、私に何を言っても無駄なことだと分かると、今ではもう何も言わなくなった。

 洵に合鍵を貰った日から、私はほぼ毎日洵の家に通っている。もう一か月近くになるが、洵はいまだに私に手を出してこようとしない。

最初はそれが気に食わなくて、自分から迫ってみたこともあるし、ベッドで寝ている洵の上に跨ってズボンに手をかけようとしたけれど、怒られるだけだった。

しかも、そんなに怒らなくてもいいだろうと思うくらい怒る。

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