ショパンの指先
なんだって男が襲われて怒るのだと、理不尽な気持ちになりながらふて腐れていると、「そういうことをするなら合鍵を返してもらう」とまで言われ、私は泣く泣く諦めた。

 性欲の塊みたいな私は、洵の気持ちがよく分からない。男と女が完全に逆転している気がする。やっぱり洵はゲイなんじゃないかという恐ろしい疑惑が浮上し、「洵はゲイだからね」と冗談半分、本気半分で口にすると、非常に怒る。

洵の気持ちが全く分からない。ゲイじゃないなら、どうして迫ってこないのよ。こんなにいい女が側にいるっていうのに、理解ができない。

 でもこの頃、幸か不幸か、この関係を悪くないと思い始めている。洵の演奏を聴きながら、好きな絵を描く。男と女は身体でしか結ばれないと思っていた私にとって、精神的に結びついているような感覚になれるこの時間が、とても居心地が良く気持ちが良かった。穏やかで、濃密で、安心する。こんな気持ち、初めてだった。

 洵は数日前から大円舞曲ばかり練習している。とても難しいらしく、同じ箇所で何度もミスタッチを繰り返していた。

 譜面に赤ペンで書き込みながら、洵は真剣に練習している。どの楽譜を開いても、洵が書き込んだ赤い文字がびっしりと埋め尽くされている。それらを見て、洵が相当の努力家であるということを知った。

楽譜だけではない。ショパンの生い立ちや歴史背景、音楽理論など本棚にはたくさんの音楽関係の本が並んでいた。そしてそれらの本のどのページを捲っても洵の書いた文字がある。

 私は勉強が嫌いで、専門学校では絵の基礎学なんてほとんど寝て過ごしていたから、洵の姿を見て反省した。

私が絵で成功できないのは、才能がないからだと自分に言い訳していたことに気が付いたからだ。

努力のしない天才なんていない。洵を見てそう思った。

私は今まで好きなことしかしてこなかった。それじゃ駄目だ。

洵の姿を見て、腹を据えて本格的に絵の勉強をしようと心に決めた。
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