ショパンの指先
 洵は演奏を止め、目薬をさした。洵は目薬をさすとしばらく休憩をする。こういう些細な、洵の癖のようなものを発見すると、たまらなく嬉しい気持ちになる。初々しい気持ちが、なんだかくすぐったくなって笑い出したくなる。こっそりと私の胸の内に仕舞いこんで、洵の休憩に合わせて私も休憩をする。

「最近、ずいぶん練習に力が入っているのね」

 投げかけた言葉に、洵は私の方に顔を向けると、少し疲れた顔で「まあね」と言った。

「何かあるの?」
「コンクールが近いんだ」
「コンクール!?」

 初耳だった。洵がコンクール。

 コンクールなんて、私の中では学生が出場するイメージだ。

「何のコンクール?」

 私が尋ねると、洵は少し真剣な表情になって言葉に厚みを持たせた。

「ショパンコンクール」

 洵の返事に私は息を飲んだ。コンクールに疎い私だって、その権威あるコンクールの名前は知っていた。世界三大ピアノコンクールの一つで、ショパンコンクールに出場するというだけでピアニストとして名誉であり箔がつく。学生が自分の力量を試すために出場するコンクールとはレベルが違う。プロの、しかも一流のピアニストのためのピアノの祭典だ。

「出場できるの?」

 すごく失礼な言い方だと、言葉に出してから気が付いた。洵はアマービレで演奏しているし、聴く者を圧倒させるほど心に響く演奏をする。技術だって一流だ。でもショパンコンクールは、CDを出すようなプロの演奏家たちですら出場が難しいといわれている大会だ。
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