ショパンの指先
洵は照れ臭そうに笑った。お金で全てが買えるわけじゃない。有名なピアニストともなれば、推薦者がひどい演奏をするようだったら、彼らの名前にも傷がつく。彼らに推薦状を書いてもらったということは、プロに技術を認めてもらったということだ。それはきっと、私が想像する以上に難しく凄いことなのだろう。

「おめでとう、洵」
「これからだよ」

 そう言ったものの、洵はとても嬉しそうだった。その綻んだ顔を見て、私も自分のことのように嬉しくなる。

「そうだ杏樹。最近杏樹のことを嗅ぎ回っていた奴が店に出入りしなくなったから、たまには店に来たらどうだ? 店長も会いたがっていたことだし」
「店長が? どうして私に?」
「さあ、酒飲みながら絵を描く奴なんて珍しいからじゃないのか? 優馬、変な奴好きだし」

 変な奴、とサラっと言われたけれど、それよりも聞いたことのある名前が出てきて、私は不本意ながらも変な奴をスルーすることにした。

「優馬って、あのゲイのバーテンダーじゃないの?」
「ああ、優馬は店長だ」
「そうだったの!?」
「驚くことか?」
「いや、何か店長なんてやるタイプには見えなかったから。まあいいわ。店で演奏する洵を見たいし、行きたいとずっと思っていたの」

 もうそろそろ有村の疑いもとける頃だろうと思っていた。人を雇って店に出入りさせるにしてもお金がかかるし、私にこれ以上お金をかけるわけにはいくまい。有村は、けっこうケチだから。

「さっそく明日行くわ」

 私の言葉に、洵はどこか嬉しそうだった。外で観客に聴かせるための演奏姿を私に見てほしいと思っていたのだろうか。まさかね。洵が私に好意を寄せているようには見えない。

 会話が終わると、洵は再び真剣な顔付きになって、鍵盤に指を乗せた。洵の練習が始まる。

 背筋がゾクゾクするような音色だった。子宮の奥がじんわりと熱くなる。その情熱を身体に秘めたまま、キャンバスにぶつけた。
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