ショパンの指先
 次の日、私は帽子を目深にかぶり、黒縁のだて眼鏡をして、長い髪はボブのように見えるように髪をセットして、久々にアマービレへ向かった。

 もう私のことを嗅ぎ回っている奴は来なくなったとはいえ、やっぱりまだ怖い。ベタで雑な変装だけれども、何もしないよりはマシだろう。

 店内は薄暗く、洵はすでにピアノの演奏をしていた。洵のピアノの音色が店の雰囲気を格調高くロマンチックにしている。観客に聴かせるための演奏は、家で練習している時に比べて色っぽい。肌を撫でるように優しい音色は、聴くだけで身体がゾクゾクしてくる。

 カウンターに座ると、優馬が注文を聞きに来た。

「おすすめのカクテルをちょうだい」

 高慢な態度で言うと、優馬はハッとしたように私の顔を覗き込んだ。

「あら、久しぶり」

 優馬はいかつい顔に似合わない女口調で微笑んだ。

「どーも」と首を少しだけ前に突き出して挨拶した。色々と迷惑をかけたから、なんだか少し気恥ずかしかった。

「変な奴が来たらすぐに教えてあげるから、安心して飲みなさい」

「絵を描いてもいい?」

「どうぞ」

 優馬は口角を少しだけ上げて、優しい目付きでおもむろにスケッチブックを開き出した私を見下ろした。

 洵は「舟歌」を演奏していた。舟歌は、ショパンの曲の中でも名曲といわれている有名な曲だ。聴く者をまるでゴンドラ(舟)に乗せ漂っているような気分にさせてくれる。美しくて抒情的で物語性のある曲。洵に弾かせると、舟歌が更に色気を帯びる。
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