ショパンの指先
私は首を振った。親密なのだろうけれど、女の人に向ける洵の笑顔は偽りだった。なんだかわざとらしい笑顔だ。洵はこんな風にキザに笑ったりしない。洵が心から笑う時はいつも、顔をくしゃっとさせて口を大きく開けて笑う。二人はまるでホストと客のようだった。

「あの人はオーナーの奥さん。この店のオーナーでもないのに、我が物顔で時々店に来るのよ」

 優馬はげんなりとした様子で言った。

「奥さん!?」

 ということは、二人の関係は不倫ということになる。青ざめた私を見て、優馬は右端の口角を意地悪気に上げた。

「だから言ったでしょう。洵はやめておけって。あんたが手を出した所で、勝てる相手じゃないわよ、あの人は。あんたにオーナーの奥さん以上の財力があるならまた話は変わってくるだろうけどね」

 私は優馬を睨みつけて、頬杖をついて横を向いた。

 ……洵にもいたのか、パトロンが。

 芸術家にパトロンがいるなんて珍しいことでもなんでもない。音楽家がパトロンに養ってもらうのは昔から当然の生業だった。フランツ・リストのパトロンはマリー・ダグー伯爵夫人で愛人関係にあったし、チャイコフスキーのパトロンは、フォン・メック夫人で、14年間に渡り熱い文通のやり取りをしていた。男女の関係ではなくても、昔の有名な画家にも必ずといっていいほどパトロンが存在する。ラファエロのパトロンは銀行家のアゴスティーノ・キージだし、レオナルド・ダヴィンチのパトロンはミラノ君主のルドヴィーコ・スフォルツァ公だった。

 そしてショパンのパトロンは、ジョルジュ・サンドだ。サンドは二人の子供を持つ女流作家で、夫とは別居していたが正式に別れていたわけではないので、ショパンとは不倫関係にあった。そういえば、さっき洵が弾いていた『舟歌』は、サンドとの激しい愛の交際中に生まれた曲だ。その背景を頭に入れて聴いてみると、甘いだけではないアダルトで官能的な響きを帯びているような気がする。洵が弾くと、なおさら艶めかしく聴こえる。

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