告白

出逢い

出逢い

平成6年。精神病院と言うところは、総合病院では敷地の1番遠いところに位置して建っている。そして、玄関を目指して歩いていると50メートルおきに温度が1度寒くなる。だんだんと心もひんやりとしてきて、なにか、虚しい感情に襲われる気がする。暦を見ると12月。荒瀬康二34歳は、昨晩。転職したさきの会社で奇妙な感覚を覚えた。初出勤の日。これまで3度の精神病院の入退院歴がある。奇妙な感覚は、周りの人間の異様な瞳が気になる。目というものは、目だけを取り上げると、千差万別、表情がある。統合失調症の初期症状だ。セオリー通りに、被害妄想な世界へと突入していった。その速度は、半日で理性を失った。そして翌日精神病院の門を叩いたのである。足を一歩踏み入れた瞬間に独房室にぶち込まれる。独房室とは、3畳の板部屋の部屋にむき出しのトイレが無造作に設置されている。部屋の壁は歴代の患者達の血な跡がこびりついている。この世の地獄だ。インドネシアの精神病院は鶏小屋に患者が監禁されている。あまり、変わった光景ではない。その恐怖はぶち込まれて。正気を取り戻した本人にしか理解できないであろうと思われる。康二はこれが四度目の独房室。二日位たったのだろうか、飯を食べた記憶がない。意識がもうろうとしていたのだろう。気がつくと鉄の扉の下にある穴から食事の膳が置かれている。メガネを取られてるせいか、ご飯が、腐って見えてなかなか腹は減っているが口にすることが出来ない。康二は大声で「フランスパンをくれ」と大声をあげた。しかし一向に外の人間には伝わらない。このままこの部屋で幕を閉じるのか。いまは昼だろうか朝だろうか夜だろうか。部屋の天井にある小窓に朝日がさしてくると朝だとわかる。記憶が甦る。これが四度目の精神病院だ。それも独房室。精神病患者で独房室に閉じごめられる人は限られている。3日ほど経っただろうか、部屋の扉がひらいた。「タバコ吸うか」マッチで火をつけると頭がくらくらした。久しぶりのモクだ。吸い終わるとまた部屋にぶちこめられる。思考の中には、被害妄想の自分と正気の自分が交互に襲ってくる。被害妄想の自分だとこの現実が苦にならない。正気になると大変だ恐怖にかりたてられる。寒々しい独房室で、時間の感覚を失った康二は、ふと自分がどうしてここにいるのか、その理由を思い出そうとする。四度目の精神病院。しかも、今回も独房。彼は独り、冷え切った床に座り込み、何もない天井を見つめながら考えを巡らせていた。
「あの時、どこで間違えたんだろうか…」
ふと、外から聞こえる足音に気付く。鉄の扉の向こう側から、誰かが近づいてくる音がする。康二は耳を澄ませる。扉がゆっくりと開く音が響くと、そこに現れたのは、見慣れた看護師だった。彼は無言で康二に紙とペンを差し出す。
「何か書きたいことがあれば、ここに書け。外に出るための手段になるかもしれない。」
看護師のその言葉に、康二はわずかに希望を感じた。書くことで、何かが変わるかもしれない。彼は手を震わせながらペンを握り、紙に最初の一文字を刻む。その文字は「脱出」
何日ぶりだろう独房室の扉を開けてタバコを一服吸う。一瞬タバコの煙が意識を朦朧とさせるが、次の瞬間。康二はタバコを一服吸い、目の前の現実が少しだけ薄れる感覚に包まれていた。その一瞬の安らぎの中で、ふと耳に届いた声に意識が引き戻された。
「おはよう。」
康二は驚いて顔を上げた。そこに立っていたのは、車瑠美26歳という若い女性。病院の白い制服が光を反射して、彼女の顔は優しい笑みを浮かべていた。26歳とは思えないほどの落ち着いた雰囲気があり、その穏やかな瞳には康二がこれまで感じてきた他人の冷たさや疑念の色は一切なかった。
「…誰だ?」
康二は、混乱しながらも言葉を発した。自分の独房に誰かが話しかけてくることなど、今までなかった。ましてやこんな若い女性が。
「瑠美よ。今日からあなたの担当になるの。よろしくね。」
彼女は自然な笑顔を浮かべながら、まるで昔から知っていたかのように親しげな態度だった。康二は一瞬、自分が幻覚を見ているのかと思った。だが、瑠美の言葉や振る舞いはどこまでも現実的で、彼の心に何かが揺さぶられる感覚があった。
「担当…?俺はここに長くいるのか?」康二は半ば自嘲気味に問いかけた。
「そんなこと、まだわからないわ。でも、少しずつ良くなっていけば、また外に出られる日が来るかもしれない。今日は、まず話をしましょう。」
瑠美の声は、まるで氷のように固く閉ざされていた康二の心を溶かすようだった。彼女の存在は、独房の冷たさと対照的に、温かさをもたらしてくれるように感じられた。その日から、瑠美との出会いが康二の人生に大きな変化をもたらすことになるとは、まだこの時の康二には想像もつかなかった。しかし、彼女との対話が、長く閉ざされていた彼の心の扉をゆっくりと開き始めたのは確かだった。独房室から解放された康二は、広々とした大畳の部屋に移動させられた。50人は寝られるその部屋は、殺伐とした独房とは違い、ほんの少しだけ安らぎを感じさせる空間だった。とはいえ、周囲の患者たちは無言で布団に横たわっており、会話や交流はほとんどない。外の天気は、灰色の空に覆われ、時折ちらつく雪が寒さを一層感じさせた。そんな中、瑠美が康二のもとを訪れるのが日常となっていた。最初は形式的なやり取りばかりだったが、次第に二人の間には信頼関係が芽生え始めた。
「どう、少しはこの生活に慣れてきた?」と、瑠美はいつものように康二に問いかけた。
康二は少し微笑み、うなずいた。「ああ、独房に比べれば天国みたいなもんだよ。」
瑠美は軽く笑い返した。「確かにね。あの独房は…耐え難いわよね。だけど、ここに移動できたってことは、少しずつ良くなっている証拠だよ。」
康二は瑠美の言葉に耳を傾けながら、彼女の温かさを感じていた。彼女は単なる看護師ではなく、康二にとって救いの存在になりつつあった。彼女と話すことで、康二は現実に戻ってこれる感覚を取り戻していったのだ。
「外はもう雪だな…。ここに来る前は、雪なんてろくに気にもしなかったけど、今は不思議と気になる。あの雪みたいに、俺の心も少しずつ冷えていったのかな…」康二はぼんやりと外の景色を眺めながら、そんなことをつぶやいた。
「冷えた心も、温めれば少しずつ溶けていくよ。焦らないで、少しずつ進んでいけばいいの。」瑠美は優しくそう答えた。その言葉は康二の心にじんわりと染み渡り、彼に小さな希望の火を灯した。これまで感じていた孤独や絶望が、瑠美との時間を通じて少しずつ和らいでいくのを康二自身も感じていた。瑠美に両親がいないという事実を康二が知ったのは、ある寒い昼下がりのことだった。二人は、いつものように昼休みに向かい合って食事をしていた。静かな部屋の中で、食器が触れる音だけが響く。康二はふと、いつも明るく振る舞う瑠美の背後に、何か隠された寂しさを感じるようになっていた。
「瑠美、君はどうしてこの仕事を選んだんだ?」と康二が不意に尋ねた。
瑠美は一瞬手を止め、少し考え込むようにしてから答えた。「私の両親、実は私が小さい頃に亡くなったの。交通事故で…」
その言葉に康二は驚き、少し言葉を失った。彼女の穏やかな笑顔の裏に、そんな過去があったとは想像もしなかった。
「それ以来、ずっと一人で生きてきた。もちろん、親戚が面倒を見てくれた時期もあったけど、結局は自分の力で立っていかなきゃいけないって思うようになったの。だから、人を助ける仕事がしたくて、この道を選んだのかもしれない」
瑠美の言葉には、どこか覚悟と孤独がにじんでいた。康二は自分が抱えてきた痛みと、彼女の過去が少し重なるように感じた。彼もまた、孤独の中で自分を見失い、長い間苦しんできた。しかし、瑠美はその孤独を乗り越え、人を支える存在としてここにいる。それが康二には眩しく映った。
「瑠美…それは、大変だったな。よく一人でここまで…」康二は、彼女の強さに素直な感嘆を覚えた。
瑠美は微笑みながら、少し照れくさそうに言った。「うん、でも誰かのためになるって思えば、やってこれたのかも。今はこうやって、康二さんと話しながら食事するのが楽しみなんだ。」
その言葉に、康二の胸に温かいものが広がった。二人が向かい合って食事をする時間は、次第に特別なものとなりつつあった。瑠美の過去を知ったことで、康二はますます彼女に惹かれていく自分に気づいた。

康二と瑠美は、静まり返った病院の屋上へと続く階段をゆっくりと登っていた。外の寒さとは裏腹に、二人の間には微妙な緊張感が漂っていた。周囲に誰もいない静かな空間で、ただ二人だけがその狭い階段を共有している。屋上に近づくにつれ、康二の心はどんどん高鳴っていった。彼は瑠美との時間が日常となり、その存在が自分にとってかけがえのないものだと強く感じていた。そして今、この密かな空間で、言葉では言い表せない感情が押し寄せてきた。突然、康二は足を止め、瑠美の方を見つめた。瑠美も康二に気づき、少し驚いた表情を見せたが、すぐにその瞳に柔らかな感情が映り込んだ。次の瞬間、康二は自分でも意識する間もなく、瑠美に近づき、彼女の唇をそっと奪った。瞬間的な衝動に駆られた行動だったが、瑠美はそのまま抵抗することなく、康二のキスを受け入れた。彼女の唇は思ったよりも柔らかく、寒い冬の日の中で唯一温もりを感じさせるものだった。二人の間に流れる静けさが、まるで時を止めたかのようだった。キスが終わると、康二はゆっくりと顔を離し、瑠美の表情を見つめた。瑠美は何も言わず、ただ康二の目を見つめ返していた。その瞳の中には、確かに何かが通じ合った瞬間があった。それは言葉ではなく、行動で示された愛の証だった。瑠美は静かに微笑んだ。そして、軽くため息をつくように言った。「もう、こんなところで…でも、嫌じゃなかった。」
その言葉に、康二の心は深く安堵し、同時に強い愛情を感じた。二人は何も言わずに再び階段を登り始めたが、その瞬間、二人の絆は一段と深まったことを感じていた。康二の退院の日がついに決まった。彼がこの病院に来てから、いくつもの時間が過ぎ去り、気持ちも大きく変わっていった。独房に閉じ込められたあの日から、瑠美と出会い、彼女の存在が康二に新たな希望と力を与えてくれた。病院の外はまだ寒さが残る季節だったが、康二の心には少しずつ春が訪れていた。彼は再び「シャバ」に戻り、もう一度自分の人生をやり直す決意を固めていた。過去の挫折や孤独に押し潰されそうになった経験も、今は新たな力に変わっていた。
「瑠美、俺、またシャバでやり直してみるよ。ちゃんと仕事を見つけて、一人前になりたいんだ。」康二は少し照れくさそうに言いながらも、強い決意を込めて彼女に伝えた。瑠美はその言葉を静かに聞き、深くうなずいた。彼女の瞳には、康二の未来を応援する気持ちと、少しの寂しさが混じっていたが、それでも彼女は微笑みを絶やさなかった。
「うん、康二さんが元気で一人前になったら、また会おうね。」瑠美の声は優しく、そして力強かった。
康二はその言葉に大きくうなずき、彼女と再会を約束した。この場所を離れることは少し寂しい気もしたが、彼には新たな人生が待っている。瑠美との時間が彼に与えたものは、単なる愛情以上のものであり、彼の生きる力となっていた。
「必ずまた会いに来るよ。それまで、俺のこと忘れないでくれよ。」
「忘れるわけないじゃない。私、待ってるから。」
そう言って二人は、静かに別れを告げたが、その心は確かに繋がっていた。
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