告白

再出発

再出発

退院した康二は、久しぶりにシャバの空気を吸いながら、意を決して職安の扉をくぐった。久々の外の世界はどこか眩しく、病院での日々が夢のように感じられる。康二は手にした求人票を見つめた。自動車工場のライン作業。ボーナスが四ヶ月分も出ると書いてあるが、その裏には厳しい労働が待っていることを感じ取っていた。
「まあ、これで合格できたらラッキーだよな」と自分に言い聞かせながら、康二は求人票を握りしめた。転職歴が多く、安定して働けなかった過去が頭をよぎるが、今の自分は以前とは違うと信じたかった。瑠美との約束もある。彼女に誇れる自分になるためにも、ここで逃げ出すわけにはいかない。
職安の窓口で担当者に求人票を差し出すと、担当者は淡々と書類を確認しながら康二に言った。「面接は来週ですね。それまでに履歴書と職務経歴書を用意しておいてください。」
「わかりました。やってみます。」
康二は不安と期待が入り混じる心境で、職安を後にした。自分の経歴がどれほど評価されるかは分からないが、合格するかどうかは運次第だと自分に言い聞かせた。だが、何よりも大事なのは、自分が再び社会に出て、働けることへの挑戦を恐れずに進むことだった。
帰り道、寒風が彼の頬を冷たく撫でたが、その中に、かすかに春の兆しが感じられた。康二はふと、瑠美との会話を思い出した。「一人前になったらまた会おうぜ。」彼女の優しい微笑みが脳裏に浮かぶと、彼の足取りは少しだけ軽くなった。
「俺、やってみるよ。今回は逃げない。」
面接の日、康二は激しい雨の中、傘を差しながら自動車工場へ向かっていた。降りしきる雨音が妙に心を落ち着かせる一方で、面接の緊張が徐々に高まっていく。転職歴が多いことを考えると、自信を持って望める状況ではなかったが、「とにかくやるしかない」と自分に言い聞かせていた。
工場の入り口に差し掛かると、ふと視界の端に奇妙な光景が飛び込んできた。激しい雨の中、ずぶ濡れになりながらも車の洗車をしている女性がいた。普通なら雨の日に洗車をする人などいないはずなのに、その女性は一心不乱に車を磨き続けていた。彼女の動作は手際よく、雨を気にも留めずに集中している。その姿に、康二は目を奪われた。
「こんな雨の中でも、あんなに真剣に働いているのか…」
その女性は増田浩美、30歳。工場で働く社員で、いつも熱心に仕事に取り組むことで知られていた。彼女の姿に康二は強く引き寄せられる感覚を覚えた。何か特別なオーラを放つ彼女に対して、自分ももっと真剣にやらなければならないと、心の中で何かが燃え上がった。そのまま面接室に向かった康二は、自然と冷静になり、堂々と面接に臨むことができた。工場の面接官たちは彼の誠実な態度と、これまでの経験に対して前向きに評価をしてくれた。面接が終わり、工場を出るときには、康二の心には確かな手応えがあった。数日後、工場からの電話が鳴った。「荒瀬さん、採用が決まりました。来週からよろしくお願いします。」
その瞬間、康二は喜びを噛み締めた。あの日、激しい雨の中で見かけた増田浩美の姿が頭に浮かび、自分を引き寄せてくれたのは彼女の不思議なエネルギーだったのかもしれないと感じた。
「よし、これで再スタートだ。」康二は再び社会で働く自分を想像し、深く息を吸い込んだ。雨はすっかり止み、空には晴れ間が広がっていた。康二が初めて挑んだ作業は、鋳造部品のバリ取り作業だった。分厚い鉄の部品に付着した余分なバリを削り落とすその作業は、単調でありながらも体力を必要とし、特に手首に大きな負担がかかる。1日終わるころには手首が痛み、腱鞘炎になりそうだと感じていた。
「これじゃ、体がもたないな…」
そう思いながら、康二は帰宅後すぐに退職願を書いた。工場での仕事は厳しく、過去に何度も転職を繰り返してきた康二にとって、またもや挫折かと自分自身に失望する思いがこみ上げた。しかし、心のどこかで踏ん張らなければならないという思いもあった。瑠美との約束や、自分を応援してくれる人たちの顔が浮かんだ。翌日、退職願を胸ポケットに忍ばせ、工場に出勤した康二は、一抹の不安を抱えながらも決意を固めていた。しかし、工場に入るやいなや、課長が彼を見つけてまっすぐ近づいてきた。
「荒瀬、もしかして辞めるつもりか?」課長の問いかけは鋭く、康二の決意を見透かしたかのようだった。
一瞬、返事に詰まった康二は、ポケットに手を伸ばそうとした。その瞬間、そばにいた浩美が静かに声をかけた。
「もう少し頑張ってみなよ。最初はみんなそうなんだ。慣れればきっと楽になるから。」
浩美の言葉はまるで魔法のようだった。彼女の真剣な表情と、かつて雨の中で黙々と働く姿が重なり、康二の中で何かが変わった。
「…わかった。もう少しやってみます。」
康二は退職願をポケットから引っ張り出すのをやめ、静かに胸の中へ押し戻した。課長もそれを見て軽く頷き、特に何も言わずその場を立ち去った。浩美の一言で、康二の心に新たな火が灯った。「もう少し」それは、彼がこれまで乗り越えられなかった壁に挑むための合図だった。康二は、浩美の言葉に背中を押される形で、再び鋳造部品のバリ取り作業に取り組むことになった。最初は痛みが伴うものの、徐々に作業に慣れ、手際も良くなっていく自分を感じることができた。周囲の同僚たちも、康二の変化に気づき始めていた。仕事を続けるうちに、康二は浩美とも少しずつ話す機会が増えていった。彼女は仕事に対する真剣さだけでなく、優しさと温かさを持っていることが彼にとって大きな支えになった。
「最近、調子はどう?」と浩美が尋ねると、康二は素直に笑顔で答えた。「おかげさまで、少しずつ慣れてきたよ。」
「それなら良かった。頑張っている姿を見ると、私も元気が出る。」浩美のその言葉が康二の心に響いた。彼女の存在が、ただの同僚から特別な存在に変わっていくのを感じた。ある日、作業が終わった後、浩美は康二を工場の外に誘った。「少し外の空気を吸いに行こう。仕事の後の気分転換は大事だよ。」
二人は工場の裏手にある小さな公園へと向かった。そこで、康二は彼女にこれまでの自分の過去や、病院での生活について話した。浩美はじっくりと話を聞き、彼の苦悩を理解しようとしてくれた。
「辛いことがあったんだね。でも、今ここで頑張っている康二さんの姿を見ていると、すごく強いと思うよ。」浩美の言葉に、康二は心が温まる思いだった。
「ありがとう。君と話すことで、勇気が湧いてくるんだ。」康二は自分の気持ちを素直に伝えた。浩美は少し照れくさそうに微笑み、二人の距離がさらに近づいた。それから数週間後、康二は職場での評価も上がり、同僚たちからも信頼される存在となっていった。浩美との関係も深まり、日々の仕事が苦ではなくなってきた。彼は自分の新しい生活に少しずつ自信を持ち始めていた。
< 2 / 6 >

この作品をシェア

pagetop