Too late

ハツコイ

 あの嫌な思い出から日が経ち、心の生傷に瘡蓋(かさぶた)がゆっくりと時間をかけながらも出来てきた。
 今日のスケジュールは男性グループとのフィーチャリング曲の収録。
 馴染みのディレクターやエンジニア、スタッフとレコーディングスタジオに集まった。
 もしかしてあの人も来るんじゃないかとヒヤヒヤしていたけどその姿はなくて、この部屋に入った途端に胸を撫で下ろした。
 体と喉の準備体操をして録音ブースに入る。
 譜面台に楽譜と携帯を置いて、1回目は何も意識せずに軽く歌う。
 途中でコントロールルームからのディレクションが入り、その回数を重ねていくことで段々と形になっていく。
 ディレクターから「もう少し柔らかく」「可愛らしい感じで」と注文を受けたが、“可愛らしく“は私の1番苦手なこと過ぎて同じ場所で詰まった。
 歌の技法に関しては完全にリク先生仕込みでエッジボイスを効かせたパンチのあるかっこいい系の歌い方を何年もしてきた。
 
 なぜ私がこの曲のフィーチャリングに選ばれた?
 
 ブースに入る前にディレクターから「フィーチャリングをユリに指名したのはリクPDだから、きっとうまくやれるはずだよ」と、衝撃の事実を知らされた。

 先生なんて私がふわふわウィスパー系が苦手なのを誰よりも知っている。
 何度も止められて似たようなディレクションが届く度に注文を消化できない自分と、私にこんな歌を歌わせてる先生にイラっとして……ついでに振られた悲しみをまた思い出して、余計に歌声がかっこよくなってしまう。
 ブースをノックしてひょっこり顔を出したディレクターが戸惑いの表情でこう言った。
 
「ユリ、上手いんだけどそれじゃ違うんだ! ちょっと1回落ち着いて、俺トイレ行ってくるから」
 
 ガラス窓越しに見えるコントロールルームにいる大人たち数名が頭を抱えている。
 ディレクターがスタジオから出てドアがバタンと閉まった音が聞こえて、一気に脱力する。
 ちょうど視線の先にあった、譜面台の上の携帯の画面が点灯して誰かからのカトクがきたのを知らせた。

 よく見たら、付き合って少し経つデヒョンからのカトク。

【俺にとってはユリの歌声は全部が可愛いし最高】

 デヒョンにはこの歌のことを話していて、苦手なジャンルだからレコーディングが不安だと嘆く私を励ましてくれていた。
 スタジオに入る直前に彼に【今からいってくる】と泣いてる顔文字と共にカトクを送っていたから、それに対しての返信だ。
 励まされるような、そうでもないような……
 デヒョン、私が何しても良い言葉しかくれない信憑性に欠けるんだよなあ……私のこと大好きだから。
 練習生の彼は毎週日曜だけお休みでそれ以外の日は毎晩12時を過ぎて宿舎に帰るため、デートは週に1回。
 彼は毎日でも会いたいそうだけど私は今の頻度でいい。
 いつか好きになることを期待しているが今のところその兆しもない。
 彼に少しも興味が湧かなくて若干の罪悪感に襲われていたけれど、こうやって彼からのカトクを見て心がじんわり暖かくなるところを見るに私もデヒョンに気持ちがないわけではないのだと思う。
 次はデヒョンのことを考えながら歌ってみよう。

 戻ってきたディレクターから「いけそう?」と聞かれて私は意気込んで答えた。

「いける気がします!」

 自分的にはだいぶ柔らかい歌い方になった気がした。
 だがしかし、ディレクターから私をハッとさせるひと言が。

 「優しい声になってる! だけど今のはあれだな、飼ってるペットに向けて歌ってるみたい! 甘さはあるけど刺激が足りない」

 核心をつかれたような言葉に思わず息をのむ。

 まさに私のデヒョンに対する気持ちはそういうものかも。
 好きは好きだけど男じゃなくてかわいがってる犬のような、そんな感じ。
 デートの時もとにかく優しくて大事に扱ってくれる彼。私からすると刺激がなくておもしろくない。
 まさしく“足りない“のだ。
 手を出される覚悟で付き合ったのに何もされずにデートだけ重ねていくうちにその覚悟も薄れていった。
 私だって……性欲くらい、ある。
 だけどデヒョンとはそういうことを考えられない。

 ただのディレクションがここまで私の深層心理を突いてくるとは————
 
  ディレクターの細かなアドバイスに耳を傾けて、どうにか良いところまで持ち上げてもらった。
 あの後にもリク先生のことを思い浮かべながら歌った時は「片想いじゃなくて両想いって感じで」と傷をえぐられるような一言を頂いた。
 このディレクター、そのうち声占いでもできるようになるんじゃないかと思う。
 ブースから出てきて深い息を吐く。
 結局は私と誰かではなく、ジウォンとチョルスの恋の行先を考えながら歌った時が1番可愛らしく歌えた。
 その場で見守ってくれていた全員に感謝の意を伝えながらここにいない親友2人にも心の中でありがとう、と告げる。

「お疲れさまでした〜! ありがとうございました!」

 笑顔で会釈してスタッフたちに挨拶しながらも、心はさざ波がたっていた。

 来てほしくなかった、会いたくなかったはずの人が私の望み通りにここには姿を現さず、私は悲しくなっている。
 本当は会いたかったみたい。
 気まずくても、嫌な気がしても、
 それでもいいから彼の顔を見たかったらしい。

 薄く膜を張ったはずの瘡蓋(かさぶた)がムズ痒くて軽い力でそっと掻いてみたら、まだ全然瘡蓋は出来ていなくて、

 治りかけだったはずの傷が元に戻ってしまったときみたいだ。
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