Too late
 今にも泣き出しそうな彼。
 弱々しく何か大きな重圧を背負っているかのようで、心配になった。

「シウ、一体どうしたの? おかしいよ」

「ユリだけは変わらないでいて」

「うん......なんで? 変わっちゃった人でもいるの?」

「俺は変わらないでいたいのに、まわりはどんどん変わってくんだ」

 切なく微笑んで、力ない声で語り始める。
 その日彼が話してくれた全てを一度に飲み込むことはできなかった。

 約20年前、シウの両親は駆け落ちしてNYへ飛んだ。韓国でも有名な財閥の娘だったシウのお母さん。箱入り娘で恋愛経験のなかった彼女は、とある日知り合いのパーティーでシウのお父さんと出会い恋に落ちる。
 彼女の周りには財閥や資産家、社会的地位のある人しかおらず一族の繁栄を望む者同士での結婚しか許されない。家族からは交際を反対され続けた。
 程なくしてNYへの赴任が決まった彼についていくことを決めて家を出た。
 2人の子にも恵まれて幸せに暮らして10年、会社から呼び戻され韓国へ戻る。
 家族4人で過ごしていた生活から一変し、帰国後に別居した。
 本当の理由は、2人の子どもの父親が韓国の大企業・AJグループの専務取締役に就任したためだった。
 AJグループはシウのお母さんの一族が経営する企業グループから分離、独立した中堅財閥。切っても切れない関係性にある。
 専務から代表に上り詰める野望を抱いた彼は、いつか代表になり会社のトップに君臨した際のシナリオを考えた。
 婚姻関係のまま代表になった場合、巨大財閥のお嬢さんと駆け落ちしたことが世間に知られることも、息子2人を危機にさらすことも危ぶまれる。
 子どもたちに普通の人生を送ってもらうために離れて暮らして息子には身分を隠し、一般より少しお金のある家を演じて彼らを育てた。
 そして3年前の春、ついにAJグループの代表に就任したのを機に離婚した。

「嘘みたいだろ......」

 一気に入ってきた情報量の多さに私の弱い頭は追い付かない。

「NYから帰ってきてロングフライトのあとの迎えの車でこれ全部話されたんだよ。酷いよな」

 笑っているけど、彼の抱えたものを思うと私は笑えない。

「ただの会社員と思っていたはずの親父が、AJのトップだなんて……」

 AJグループなんて韓国の企業にそう詳しくない私でさえよく知っている。
 彼のお父さんがグループの専務になる前に所属していたメディア事業でいうと私も仕事でお世話になったことがある。テレビ局や音楽祭、音楽番組、コンサート運営など多岐にわたって運営をしているため普段もよくAJの文字列を目にする。
 芸能界でもアイドルや歌手は特にAJとの関わりが深い。
 AJグループの関連企業は多く、そのロゴは韓国人の日常生活に蔓延っている。
 きっとうちの冷蔵庫の中にもAJと記された商品が入っている。
 正直なところ話の規模が大きすぎて現実味はない。
 
「シウのママも......言われてみたら浮世離れしたところあるよね......」

 天真爛漫で少しメルヘンチックなところがあるシウのお母さん。
 年下の私がいうのもおかしいけど、いつまでも少女のようでかわいらしい性格の人だ。
 話し方もおっとりしていておしとやか。
 実は財閥家の出身だと知ってもそう違和感はなくて、むしろ納得がいった。
 ただその事実には驚かされる。大財閥の人と会うことなんて一生ないと思っていたから。
 うちのママ、よく手作りのお菓子とかパンをシウのママにあげていたけどお口に合うのかな......ともう遅い心配をする。

「ほら、俺って一人息子じゃん。親父は俺に継がせたいみたいなんだよね。AJって関連企業も含めて同族経営じゃないし、親父はちゃんと実力で選ばれた人だからそんなところに俺が入るのも気が引ける。それに......代表とかそういうの、あんまり興味ないし」

「同族経営?」

「親族中心で経営してる会社のことだよ。赤の他人よりも身内の方がそりゃあかわいいからな」
 シウは淡々と話し続けるが、まだ二十歳な上に賢くもない私がそんな難しい話をスッと理解できるわけない。
 物知らずな私に自分の立場をひけらかしたくて話しているのかと彼を疑う。

「はっ......! ごめん!」

 ポカーンとしている私に気づいた彼の反応で故意ではないとわかった。
 口慣れた調子で仕事の話をしているところから察するに、帰国してからほんの数週間のあいだにもお父さんの教育を相当叩き込まれているようだ。
 シウ、財閥の血を引いた正真正銘の御曹司なんだ......
 彼をこんな狭い部屋に長居させても大丈夫なのか。
< 44 / 97 >

この作品をシェア

pagetop