Too late
「あっ、すみません!」
 顔を見られないようお辞儀して、相手の体を避けて大きな一歩を踏み出した。
 が、その人に腕を掴まれる。
 お願いだから平穏無事に帰らせてほしい。
 あと少しで出口だった。
 強引に自分のほうへ振り返らせようとする彼に抗う。
 誰も見ていないと思いたい。
 被害妄想に駆られて、周囲が私たちのことを噂しているような気がしてくる。

 必死の抵抗に、何かを察したのか彼は腕の力を弱めて、離した。

 体を硬直させたまま、少しだけ冷静さを取り戻す。
 背後で繰り広げられる会話が鮮明に耳に届く。
「失礼しました! あっ、携帯が......」
「すみません、僕も携帯を見ながら歩いてて......」
 後ろであたふたしている2人の息づかいが何かをきっかけにぱたりと止む。
 空気が一変した気配。おそるおそる振り向くと、しゃがんでいるミレオンニとシウがいた。
「ごめんなさい! どうしよう」
 オンニの手にあるiPhone。画面が見事に割れていた。
 点灯したスクリーン、背景は私が勝手に設定した好きなキャラクターのイラスト。
 穏便に済ませるには、と頭を働かせないといけないのに、頭のなかに霧がかかって白い靄に包まれた感覚に陥る。
 思考がスムーズにいかない。
 ホールの人々がチラチラとこちらに顔を向けて状況を盗み見ているのが視界の奥の方にぼんやりと写る。
 最悪だ。

「ごめん......なさい......」
 2人につられて私もしゃがみ込む。

 オンニは「なにやってるの!」と私に言いながら何度もシウに謝る。
 この様子からしてオンニもシウがAJの御曹司だと知っている。
 ホールが凍りついている気がした。
 あんなに騒がしかったのに静まり返っている。
 そりゃそうだ。あのAJの身内とトラブルだなんて、周りは冷や汗をかいていることだろう。
 張り詰める緊迫の空気は耐え難い。
 2人の顔もまともに見れない。

「あの、すみません、とりあえずの弁償代を一旦お渡しします。ちょっと取ってきますので」
 オンニは混乱しながらも、事を納めようとしてくれている。
 足早にどこかへと駆けていった。
 
「ごめん、ちゃんと払うから」
「いいよ、こんなの」
 誰にも聞こえない、2人の会話。
「だけど傷ついた」
「だから払うって」
「俺と仲良いって、知られたくないんだね」
「え......」
「傷つく」
 彼を傷つけた。
 割れた画面に視線を置いて、切なく微笑んだ。
「......そういうつもりじゃ、なくて」
 ここで言っていいものか、困った私は咄嗟にあの先輩が見ていないかを確認したくなった。
 私たちの間には何メートルも距離があるのに、強烈な威圧感。
 ステージ用メイクでいつもより跳ねあげたアイライン、真っ赤な口紅、ギラギラのアイシャドウ。
 刺すような視線を送る彼女に怖じ気づいて顔を逸らした。

「シウは自分が思ってるよりもずっと......」

「ん?」
「いや、なんでもない。別に隠したいわけじゃなかったけど、まさかこんな場所出会うと思ってなくてびっくりしちゃった」
「本当はここに来る予定はなかったんだけど、親父に迎えに来いって頼まれて」

 割れた携帯謎に私に渡す。
 罪悪感を抱かせる魂胆か、ムッとして携帯を奪い取る。
 そっと撫でた画面はガタガタだ。亀裂が大胆に何個も入っている。

「ああ、やっぱりあの方がお父さん?」

 タップして点灯した液晶。カカオトークの通知があった。
チョルス【ユリと久々に会ってみてどうだった?】
 あいつめ......

「うん。迎えに来ただけなのに勝手にお偉いさんたちに紹介しはじめてさ、最初っからそのつもりだったんだろうな。はめられたよ」

 困ったもんだ、と呆れた様子のシウが何かに気づき「なあ、あれ見て」と私を小突く。
 
「さっきの人、なんかすごいあたふたしてるけど大丈夫かな?」

 彼が心配しているのはマネージャー、ミレオンニのこと。
 複数名の社員に囲まれている。
 焦っているのか普段のオンニとは打って変わって挙動がおかしい。
 どうしよう、私のせいで......
「あの人、私のマネージャーなの」
 しゃがんだままのシウを置いてオンニのもとへ駆け寄った。
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