Too late
純白のグランドピアノの傍で彼女を待つ。
「タクシーで良かったのに」
「変わんないだろ」
「そうかな......」
時を持て余し、気まずい空気が流れる。
意味もなく下を見たり、髪を弄ったり。
お互いに同じ方向に身体を向けて、視線が重なるのを避ける。
「あのときは、ごめん」
「へ?」
突発的な謝罪。
つい彼を見ると、苦い表情。
「嫌だった、よな。事務所の人にあんなこと言って」
「っ......ああ、別に全然気にしてないよ」
それを聞いて彼が勢いよくこちらに身体ごと向けたのが目の端に映るが、私は正面に顔を向けたまま。
「じゃあなんで————」
なんで“連絡くれなかったの”。
続きはきっと、そんな台詞。
「私ね、今、頑張ってるの」
彼と向かい合う。
「シウだから付き合わないんじゃない。今は誰も選ばないから」
私なりの愛情だった。
いや、それはただの偽善で、本当は私のわがままかも。
まだシウのこと、離したくないみたい。
「......もし、あいつが帰ってきても同じこと言う?」
「えっ」
表情管理を忘れてしまった。
今自分がどんな顔をしているか分からない。
しかし私の反応を見た彼に陰りが漂ったのは明らか。
シウは何も知らないはず。
私が彼の弟を好きだったことも、告白して振られてことも。
知る由もない。
それなのにどうしてこんなことを聞くのだろう。
取り繕った冷静さで動揺に抗う。
一瞬たりとも、視線は相手から逸らさない。
「なに言ってるの?」
「仕事頑張るのも、あいつのため?」
「まさか、そんな......そんなわけないでしょ。普通に頑張りたいの」
「そう? ならいいけど」
彼は沈着な私を見るとあっさり信じた。
ヒヤリとした。
何年も隠しきれていたのにここにきてバレるかと、焦った。
心臓の鼓動が全身に響き渡る。
ちょうどスジさんが戻ってきて、張り詰めた緊張の糸がプツリと切れた。
「今、車出してもらったからね」
「ありがとうございます。お邪魔しました」
スジさんの後ろから一緒に着いてきた家政婦は、私に軽くお辞儀をして横を通りすぎた。
玄関へ向かうとシューズクローゼットの方から家政婦が顔を出した。
「お履き物はどちらですか?」
「あっ、白のスニーカーです」
「こちらでお間違えないですか?」
ご丁寧に手を添えて差し出された薄汚いスニーカー。
この玄関に不釣り合いすぎる。
真後ろにシウとスジさんがいて、恥ずかしい。
「あっ、そうです。ありがとうございます」
そそくさとスニーカーに足を入れ、ぎゅうぎゅうに踵を押し込んだ。
次ここに来るときはもっとちゃんとした服装で来よう。
スジさんに見送られて、玄関から出る。
外では、この家に来て一番最初に会ったスーツの人が車の後部座席のドアを開けて私を待ち構えていた。
この人は朝の何時から働いて、いつ退勤して、いつ休むのだろう。
そんなことが気になった。
シウに「今日はありがとう」と伝え、車に乗り込む。
扉が閉まったら、ドアのすぐそこで2人の会話が聞こえる。
「じゃあ、この子をお願いします」
「かしこまりました」
「お疲れさまです」
スーツの男性は運転席に座るとこっちに振り替えって「どちらまで?」と尋ねる。
住所を教えたら、かしこまりました、とだけ言ってまた正面を向いた。
愛想は良いけれど業務的だ。
ずっと家にいる人かと思っていた。運転手もするらしい。
窓を開けてもらい、車内からシウを見上げる。
「またね」
彼の手が延びてきて私の頭の上に置かれた。
予想外の行動に戸惑う。
彼に頭を撫でられることには慣れていても、今は2人きりではない。
前は、ジウォンとチョルスの前でなら普通にしていたけど、家の人がいる場でこういうことをしてもいいの!?
シウってうちの両親の前でも優等生キャラだし、この行動は意外だ。
恥ずかしいからやめて、と言う勇気はなく、ただ肩を竦めた。
「連絡もしたら駄目なの?」
「いや、そんなんじゃないよ。ただ、本当に結構忙しかったから......来週になったら暇になるし、ちゃんと連絡返すよ」
「わかった。じゃあね」
会話の終わりを見つけた運転手がこちらに少し顔を向けて会釈した。
「では、出発します」
さっきルームミラーをちらりと確認した時には何も気づいていない様子だった。
しかしシウと私のやり取りが終わるタイミングを見図っていたのだ。
執事って凄い。
存在感を消してまるで居ないように振る舞いながらも、必要とされるタイミングを察する能力。
うちのマネージャーも気が利くけど、その遥か上をいく。
こんな豪邸で大企業の代表にお仕えしているくらいだし、これが当たり前なのだろう。
なんだか、ここから見える後ろ姿がかしこまり過ぎていて落ち着かない。
タクシーのおじちゃんと全然違う......
家に着くまでの数十分。
後部座席で深く腰を据え、自分の呼吸音にだけ気を取られているうちに眠気が襲ってきた。
目を閉じて、頭を休める。
スジさん、悪い人には見えなかった。
気さくで華やかで、嫌みもない感じ。
シウは基本、人を疑ってかかる人だからあんなこと言ってるけど、私がスジさんとシウの仲を取り持つことができたら、シウもあの家でうまくやっていけるんじゃないかな。
「タクシーで良かったのに」
「変わんないだろ」
「そうかな......」
時を持て余し、気まずい空気が流れる。
意味もなく下を見たり、髪を弄ったり。
お互いに同じ方向に身体を向けて、視線が重なるのを避ける。
「あのときは、ごめん」
「へ?」
突発的な謝罪。
つい彼を見ると、苦い表情。
「嫌だった、よな。事務所の人にあんなこと言って」
「っ......ああ、別に全然気にしてないよ」
それを聞いて彼が勢いよくこちらに身体ごと向けたのが目の端に映るが、私は正面に顔を向けたまま。
「じゃあなんで————」
なんで“連絡くれなかったの”。
続きはきっと、そんな台詞。
「私ね、今、頑張ってるの」
彼と向かい合う。
「シウだから付き合わないんじゃない。今は誰も選ばないから」
私なりの愛情だった。
いや、それはただの偽善で、本当は私のわがままかも。
まだシウのこと、離したくないみたい。
「......もし、あいつが帰ってきても同じこと言う?」
「えっ」
表情管理を忘れてしまった。
今自分がどんな顔をしているか分からない。
しかし私の反応を見た彼に陰りが漂ったのは明らか。
シウは何も知らないはず。
私が彼の弟を好きだったことも、告白して振られてことも。
知る由もない。
それなのにどうしてこんなことを聞くのだろう。
取り繕った冷静さで動揺に抗う。
一瞬たりとも、視線は相手から逸らさない。
「なに言ってるの?」
「仕事頑張るのも、あいつのため?」
「まさか、そんな......そんなわけないでしょ。普通に頑張りたいの」
「そう? ならいいけど」
彼は沈着な私を見るとあっさり信じた。
ヒヤリとした。
何年も隠しきれていたのにここにきてバレるかと、焦った。
心臓の鼓動が全身に響き渡る。
ちょうどスジさんが戻ってきて、張り詰めた緊張の糸がプツリと切れた。
「今、車出してもらったからね」
「ありがとうございます。お邪魔しました」
スジさんの後ろから一緒に着いてきた家政婦は、私に軽くお辞儀をして横を通りすぎた。
玄関へ向かうとシューズクローゼットの方から家政婦が顔を出した。
「お履き物はどちらですか?」
「あっ、白のスニーカーです」
「こちらでお間違えないですか?」
ご丁寧に手を添えて差し出された薄汚いスニーカー。
この玄関に不釣り合いすぎる。
真後ろにシウとスジさんがいて、恥ずかしい。
「あっ、そうです。ありがとうございます」
そそくさとスニーカーに足を入れ、ぎゅうぎゅうに踵を押し込んだ。
次ここに来るときはもっとちゃんとした服装で来よう。
スジさんに見送られて、玄関から出る。
外では、この家に来て一番最初に会ったスーツの人が車の後部座席のドアを開けて私を待ち構えていた。
この人は朝の何時から働いて、いつ退勤して、いつ休むのだろう。
そんなことが気になった。
シウに「今日はありがとう」と伝え、車に乗り込む。
扉が閉まったら、ドアのすぐそこで2人の会話が聞こえる。
「じゃあ、この子をお願いします」
「かしこまりました」
「お疲れさまです」
スーツの男性は運転席に座るとこっちに振り替えって「どちらまで?」と尋ねる。
住所を教えたら、かしこまりました、とだけ言ってまた正面を向いた。
愛想は良いけれど業務的だ。
ずっと家にいる人かと思っていた。運転手もするらしい。
窓を開けてもらい、車内からシウを見上げる。
「またね」
彼の手が延びてきて私の頭の上に置かれた。
予想外の行動に戸惑う。
彼に頭を撫でられることには慣れていても、今は2人きりではない。
前は、ジウォンとチョルスの前でなら普通にしていたけど、家の人がいる場でこういうことをしてもいいの!?
シウってうちの両親の前でも優等生キャラだし、この行動は意外だ。
恥ずかしいからやめて、と言う勇気はなく、ただ肩を竦めた。
「連絡もしたら駄目なの?」
「いや、そんなんじゃないよ。ただ、本当に結構忙しかったから......来週になったら暇になるし、ちゃんと連絡返すよ」
「わかった。じゃあね」
会話の終わりを見つけた運転手がこちらに少し顔を向けて会釈した。
「では、出発します」
さっきルームミラーをちらりと確認した時には何も気づいていない様子だった。
しかしシウと私のやり取りが終わるタイミングを見図っていたのだ。
執事って凄い。
存在感を消してまるで居ないように振る舞いながらも、必要とされるタイミングを察する能力。
うちのマネージャーも気が利くけど、その遥か上をいく。
こんな豪邸で大企業の代表にお仕えしているくらいだし、これが当たり前なのだろう。
なんだか、ここから見える後ろ姿がかしこまり過ぎていて落ち着かない。
タクシーのおじちゃんと全然違う......
家に着くまでの数十分。
後部座席で深く腰を据え、自分の呼吸音にだけ気を取られているうちに眠気が襲ってきた。
目を閉じて、頭を休める。
スジさん、悪い人には見えなかった。
気さくで華やかで、嫌みもない感じ。
シウは基本、人を疑ってかかる人だからあんなこと言ってるけど、私がスジさんとシウの仲を取り持つことができたら、シウもあの家でうまくやっていけるんじゃないかな。