パルティータの調べに合わせて

第13話

 コンサートホールの小ホールはほぼ満席であった。最前列の席で瑞穂と瑠美は立った状態で、他の観客に合わせてアンコールの拍手をしていた。アンコールに応えて裕一、正、太郎、亜香里の順に、四人は舞台の袖から姿を現してきた。エレキ・ギターを首にさげていた裕一は、スタンドマイクの前まで進み出て両手でマイクスタンドを握った。
「今日は本当にありがとうございました。僕たちの単独ライブにこんなに大勢の人たちが来てくださって。本当にありがとうございます。アンコールに僕たちのオリジナルの曲『君への思い』を演奏します。聴いてください」
 亜香里が442ヘルツにピッチを変えたAの音を鳴らした。裕一が442ヘルツのAの音をエレキ・ギターで鳴らした。正がエレキ・ベースで442ヘルツのAの音を鳴らした。裕一はキーのコードをかき鳴らした。

 裕一がアカペラで歌い始めた。

「太陽が月の光に気づかないように
僕の輝きに気づいてくれない」

裕一のアカペラの歌声に隠されていたリズムに、正のエレキ・ベースの音が静かに溶け込んでいった。

「青空が無数の星のきらめきに気づかないように
僕の差し出す宝石に気づいてくれない」

亜香里のキーボードから和音のアルペジオと裕一の歌っている旋律とは別の旋律が響き始めた。

「刻んだ時が
海辺の砂だったとしても
君の心には
何も残らなかった」

正のエレキ・ベースが刻んでいたリズムを包み込むように太郎のドラムの音が響き始めた。
「一瞬だけでいい
君の存在を感じていたい
一瞬だけでいい
君の指に触れていたい」

 AメロとBメロとサビの伴奏を、正と太郎と亜香里が繰り返した。その伴奏に合わせて裕一はエレキ・ギターでアドリブの旋律を弾き始めた。初めはアカペラの部分を、アレンジしたフレーズをバラード調に静かに弾き始めた。裕一の弾くフレーズは段々とスピードを増し、やがてロック調のフレーズとなり、裕一の左手の指の動きは、蜜蜂の羽の動きのような素早いものとなっていた。裕一が弾き鳴らす旋律はあまりの速さのため、唸り声をあげるようなものとなっていた。
 突然裕一のエレキ・ギターも、正のエレキ・ベースも、太郎のドラムも亜香里のキーボードも、沈黙のベールに覆われて暗黒の闇の中へと吸い込まれていった。一瞬の静寂の後、エレキ・ギターを抱えていた裕一を覆っていた沈黙のベールが剥がされた。裕一はエレキ・ギターに繋がれたエフェクターの音質を、ヴァイオリンの音質に極限まで近づけた。裕一の右脳にヴァイオリンソロのコンサートで聴いた、バッハの無伴奏ヴァイオリン『パルティータ』の旋律が響いていた。極限までヴァイオリンの音質に近づけられた音質を帯びたエフェクターを通して、裕一がエレキ・ギターで奏でるフレーズは、裕一の右脳で響く『パルティータ』の旋律と融合して響いた。裕一の左脳はヴァイオリンソロコンサートで演奏されたバッハの無伴奏ヴァイオリン『パルティータ』を聴いていた。エレキ・ベースの正を覆っていたベールと、ドラムの太郎を覆っていたベールと、キーボードの亜香里を覆っていたベールとが一斉に剥がされた。裕一の歌声とリズムギター、正のエレキ・ベースの音、太郎のドラムの音、亜香里のキーボードの音が、今まで誰も気づいていなかった最後の薄い沈黙のベールを投げ捨てて、観客全員の右脳に飛び込んできた。


一瞬だけでいい
君の存在を感じていたい
一瞬だけでいい
君の指に触れていたい

太陽が月の光に気づかないように
僕の輝きに気づいてくれない
青空が無数の星のきらめきに気づかないように
僕の差し出す宝石に気づいてくれない

刻んだ時が
海辺の砂だったとしても
君の心には
何も残らなかった

太陽が月の光に気づかないように
僕の輝きに気づいてくれない
青空が無数の星のきらめきに気づかないように
僕の差し出す宝石に気づいてくれない
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