パルティータの調べに合わせて
第6話
上野裕一の勤めている会社は社長を含めて従業員5人の小さなIT企業である。主に学校で教師と生徒が使うパソコンの設定やメンテナンスを行ったりする。時々学校にあるサーバーの設定やメンテナンスを行ったりもしている。裕一は一週間後にライブがあるために、残業はできるだけ避けたかった。社長にお願いして自宅待機の勤務形態にしてもらった。学校で授業時間帯に生徒使用のパソコンが故障したり、教師の勤務時間帯に教師のパソコンが故障したときに、自宅から直接その学校に行く勤務にしてもらった。社長の藤倉末雄は大企業のコンピュータのエンジニアであったが、会社組織にうんざりして中途退社して、退職金を資金にして今の会社を起こした。藤倉は大学で軽音楽部に入っていたせいか、裕一のバンド活動に対しては好意的に見てくれていたようであった。
「藤倉だけど。今、西高校のIT担当者から連絡があって、コンピュータ教室の生徒用のパソコンが数台調子が悪いということだ。今からそちらへ行ってくれないか?」
「わかりました。西高校は家からだったら車で10分位ですから、20分後には着きますと伝えてください」
西高校に向かって運転するみちみち、裕一の頭の中にあるのはこれから行く西高校でのコンピュータ修理のことではなく、裕一のオリジナル曲の間奏の後半部分である。裕一のイメージは最近聴いたヴァイオリンソロコンサートでの、バッハの『パルティータ』であった。間奏の後半部分はヴァイオリンソロを意識してギターだけの演奏である。所詮ギターでヴァイオリンの音を出しても単なる真似事である。けれど裕一はそのことを分かっていながら極限までヴァイオリンの音に近づけたいと思っていたのである。しかし裕一にとってなんとも微妙なことは、たまにではあるが、瑞穂の映像が脳裏をかすめるほんの一瞬の心の変化である。
裕一が案内されたのは、生徒がパソコンの授業を受けるコンピュータ教室であった。裕一は事務室で渡された報告書を見た。5台のパソコンが故障と書かれてあった。内容を見ると、「2台のパソコンはディスプレイの画面が表示されない。2台のパソコンがネットにつながらない。1台のパソコンの電源がつかない」というものであった。まず最初に、電源のつかないパソコンからみることにした。本体にある電源ボタンを押しても何の反応もなかった。もしやと思って本体の裏側を見て電源アダプターの根本に触れると、今にも外れそうなくらい緩んでいた。電源アダプターの根本を押し込んだ。再び本体前面にある電源ボタンを押すと、何の問題もなくパソコンの電源がついてパソコンが起動した。次にディスプレイの画面が表示されない2台のパソコンをみた。2台とも電源を入れて音だけを聞いていると、何の問題もなくパソコンが起動しているように思えた。もしやと思ってパソコン本体の裏側をみて、ディスプレイのケーブルの本体との接合部分をつかんでみると、2台ともかなり緩んでいた。それぞれ接合部分を最後までしっかりと押し込んだ。それぞれのディスプレイをみると何の問題もなく画面表示された。最後にネットに繋がらないパソコンをみた。電源を入れると2台とも問題なく起動して、正常なデスクトップ画面が表示された。コンピュータ教室のサーバーのIPアドレスにpingを送ってみた。信号はかえってこなかった。これもまたもしやと思い、パソコン本体の裏側を見てみると、LANケーブルが2台とも外れていた。2台のパソコンのLANケーブルを差し込んだ。再度コンピュータ教室のサーバーのIPアドレスにpingを送ると、正常に信号がかえってきた。作業が終わって、裕一は作業内容明細書と請求書を作成して事務に渡さなければならなかった。ちょっとのパソコン知識で簡単にできる作業であったから、以前の裕一だったらふざけるなという思いで、かなり吹っ掛けた額の請求書を作成するところであった。鞄からノートパソコンとプリンターを取り出して、パソコンにデータを入力しようとしたとき、修とラーメン屋で食事をした時のことが頭をよぎった。
「なんだ、修じゃないか」
「幾雄?」
「久しぶりだね」
「ほんと久しぶりだね。今夜の夕飯はラーメンにしようと思って。」
「今仕事帰りなの?随分遅いんだね。あ、幾雄、友だちの上野裕一くん」
今度は裕一に向かって、
「彼は大学時代の友人で泉田幾雄くん」
修は互いの名をフルネームで紹介した。
「上野裕一ですよろしく」
「こちらこそ、泉田幾雄です。よろしく」
「どうですか・・・一緒に食べますか?」
「いいんですか?もし迷惑じゃなければ」
「裕一がいいって言ってるんだから、ぜんぜん問題ないよ」
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
「それじゃー。味噌ラーメンと餃子1枚」
「味噌ラーメンと餃子1枚ですね。ありがとうございます」
「裕一、幾雄はね、大学で同じゼミだったんだけど、今彼は高校の数学の教師をしているんだ」
「いつもこんなに帰りが遅いのですか」
「ええ・・・特に今年は3年の担任なので・・・特に忙しいんです。3者面談があるし、生徒の進路相談や書類作成があるし、毎日のように会議があるし、部活動指導があるし、授業の準備なんていつも後回しですね」
「なんか本当に忙しそうですね」
「僕は教師って夏休みがあるから、ゆったりしたイメージがあったのだけど・・・教師になることを志望して教員試験を受けたのだけど・・・なってみると僕がイメージしていたことと現実があまりにも違っていたね。いまさら辞めようと思っても父親が今弱ってしまって。もう働けなくなっているから、僕はもう親の面倒を見なければならない・・・辞めようにも辞められなくて」
「幾雄が教員採用試験に合格した時、公務員でいいなって羨ましく思っていたけれど。学校現場のことはほとんどわからないけれど、幾雄のその話しぶりからみると大変そうだね」
「数学の教師ということで採用されたから、教科は数学だけを教えればいいのだと思っていたのだけれど、いざ採用されるといつのまにか、情報処理の教科まで教えなければならないようになってしまってね。情報という必修の教科があるのに、情報科の教員をひとりも採用していないんだよ。それで僕のような数学科や理科の教員が情報の免許をとらされて、専門の教科以外の教科も教えなければならない状況になっているんだよ」
「僕は幾雄と違って最初から教員になるつもりがなかったから、教職課程をとらなかった。教育事情にもあまり興味がなく過ごしてきたから、幾雄の話しを聞いてもあまりピントこないけど、大変そうなのはなんとなく感じるよ」
「でもコンピュータを教えるなんて楽しそうに思えるけど」
「コンピュータが好きな人からは、外からみると楽しそうに見えるのかも知れないけれど、自分でパソコンを勉強するのと、教えるのとでは随分違うんだよ。それに一度に40人に教えるなんて大変だよ。また40台のコンピュータを管理するのも大変だよ。これは去年あったことなんだけど、パソコンがあまり得意ではない先生が、ホームルームでパソコン教室を使っていたんだけど、電源がつかないパソコンがあるといってパニックになって、ホームルーム中の僕の教室まで来たんだ。僕はホームルームの生徒に重要な書類を書かせていたから教室を離れるわけにはいかなかったんだ。それでパソコン教室の担当だったけれど特に確認しないで、事務から業者の方に連絡してもらったんだ。後で業者に嫌味を言われたよ。電源の入らなかったパソコンは、単に電源アダプターが外れていただけだったからと」
修の友人の高校教師の言葉が、裕一の耳元で聞こえたような気がした。裕一は一瞬後ろを振り向いてしまった。裕一は5台のパソコンの不具合の原因とそれに関して行った作業のデータを、ありのままにノートパソコンに打ち込んだ。特殊技能が必要でないのに必要であったかのように、いくらでも飾りをつけて書くことは可能であった。そうすれば請求する額をかなりあげることができた。しかし、裕一は不具合の原因とそれに対して行った作業を単純明快に書いた。請求書は出張費用と単純作業からなる安価なものとなった。請求書と報告書をプリンターから打ち出して事務に提出した。帰りの車の中で、さっきのノートパソコンにデータを打ち込む前、耳元で聞こえた修の友人のセリフに、その時は気付かなかったが、無伴奏ヴァイオリンの響きが背景で聞こえていたような気がしたことを思い出した。そしてそのセリフと音楽の響きと一緒に、瑞穂の映像が脳裏をよぎっていたことを思い出した。
「藤倉だけど。今、西高校のIT担当者から連絡があって、コンピュータ教室の生徒用のパソコンが数台調子が悪いということだ。今からそちらへ行ってくれないか?」
「わかりました。西高校は家からだったら車で10分位ですから、20分後には着きますと伝えてください」
西高校に向かって運転するみちみち、裕一の頭の中にあるのはこれから行く西高校でのコンピュータ修理のことではなく、裕一のオリジナル曲の間奏の後半部分である。裕一のイメージは最近聴いたヴァイオリンソロコンサートでの、バッハの『パルティータ』であった。間奏の後半部分はヴァイオリンソロを意識してギターだけの演奏である。所詮ギターでヴァイオリンの音を出しても単なる真似事である。けれど裕一はそのことを分かっていながら極限までヴァイオリンの音に近づけたいと思っていたのである。しかし裕一にとってなんとも微妙なことは、たまにではあるが、瑞穂の映像が脳裏をかすめるほんの一瞬の心の変化である。
裕一が案内されたのは、生徒がパソコンの授業を受けるコンピュータ教室であった。裕一は事務室で渡された報告書を見た。5台のパソコンが故障と書かれてあった。内容を見ると、「2台のパソコンはディスプレイの画面が表示されない。2台のパソコンがネットにつながらない。1台のパソコンの電源がつかない」というものであった。まず最初に、電源のつかないパソコンからみることにした。本体にある電源ボタンを押しても何の反応もなかった。もしやと思って本体の裏側を見て電源アダプターの根本に触れると、今にも外れそうなくらい緩んでいた。電源アダプターの根本を押し込んだ。再び本体前面にある電源ボタンを押すと、何の問題もなくパソコンの電源がついてパソコンが起動した。次にディスプレイの画面が表示されない2台のパソコンをみた。2台とも電源を入れて音だけを聞いていると、何の問題もなくパソコンが起動しているように思えた。もしやと思ってパソコン本体の裏側をみて、ディスプレイのケーブルの本体との接合部分をつかんでみると、2台ともかなり緩んでいた。それぞれ接合部分を最後までしっかりと押し込んだ。それぞれのディスプレイをみると何の問題もなく画面表示された。最後にネットに繋がらないパソコンをみた。電源を入れると2台とも問題なく起動して、正常なデスクトップ画面が表示された。コンピュータ教室のサーバーのIPアドレスにpingを送ってみた。信号はかえってこなかった。これもまたもしやと思い、パソコン本体の裏側を見てみると、LANケーブルが2台とも外れていた。2台のパソコンのLANケーブルを差し込んだ。再度コンピュータ教室のサーバーのIPアドレスにpingを送ると、正常に信号がかえってきた。作業が終わって、裕一は作業内容明細書と請求書を作成して事務に渡さなければならなかった。ちょっとのパソコン知識で簡単にできる作業であったから、以前の裕一だったらふざけるなという思いで、かなり吹っ掛けた額の請求書を作成するところであった。鞄からノートパソコンとプリンターを取り出して、パソコンにデータを入力しようとしたとき、修とラーメン屋で食事をした時のことが頭をよぎった。
「なんだ、修じゃないか」
「幾雄?」
「久しぶりだね」
「ほんと久しぶりだね。今夜の夕飯はラーメンにしようと思って。」
「今仕事帰りなの?随分遅いんだね。あ、幾雄、友だちの上野裕一くん」
今度は裕一に向かって、
「彼は大学時代の友人で泉田幾雄くん」
修は互いの名をフルネームで紹介した。
「上野裕一ですよろしく」
「こちらこそ、泉田幾雄です。よろしく」
「どうですか・・・一緒に食べますか?」
「いいんですか?もし迷惑じゃなければ」
「裕一がいいって言ってるんだから、ぜんぜん問題ないよ」
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
「それじゃー。味噌ラーメンと餃子1枚」
「味噌ラーメンと餃子1枚ですね。ありがとうございます」
「裕一、幾雄はね、大学で同じゼミだったんだけど、今彼は高校の数学の教師をしているんだ」
「いつもこんなに帰りが遅いのですか」
「ええ・・・特に今年は3年の担任なので・・・特に忙しいんです。3者面談があるし、生徒の進路相談や書類作成があるし、毎日のように会議があるし、部活動指導があるし、授業の準備なんていつも後回しですね」
「なんか本当に忙しそうですね」
「僕は教師って夏休みがあるから、ゆったりしたイメージがあったのだけど・・・教師になることを志望して教員試験を受けたのだけど・・・なってみると僕がイメージしていたことと現実があまりにも違っていたね。いまさら辞めようと思っても父親が今弱ってしまって。もう働けなくなっているから、僕はもう親の面倒を見なければならない・・・辞めようにも辞められなくて」
「幾雄が教員採用試験に合格した時、公務員でいいなって羨ましく思っていたけれど。学校現場のことはほとんどわからないけれど、幾雄のその話しぶりからみると大変そうだね」
「数学の教師ということで採用されたから、教科は数学だけを教えればいいのだと思っていたのだけれど、いざ採用されるといつのまにか、情報処理の教科まで教えなければならないようになってしまってね。情報という必修の教科があるのに、情報科の教員をひとりも採用していないんだよ。それで僕のような数学科や理科の教員が情報の免許をとらされて、専門の教科以外の教科も教えなければならない状況になっているんだよ」
「僕は幾雄と違って最初から教員になるつもりがなかったから、教職課程をとらなかった。教育事情にもあまり興味がなく過ごしてきたから、幾雄の話しを聞いてもあまりピントこないけど、大変そうなのはなんとなく感じるよ」
「でもコンピュータを教えるなんて楽しそうに思えるけど」
「コンピュータが好きな人からは、外からみると楽しそうに見えるのかも知れないけれど、自分でパソコンを勉強するのと、教えるのとでは随分違うんだよ。それに一度に40人に教えるなんて大変だよ。また40台のコンピュータを管理するのも大変だよ。これは去年あったことなんだけど、パソコンがあまり得意ではない先生が、ホームルームでパソコン教室を使っていたんだけど、電源がつかないパソコンがあるといってパニックになって、ホームルーム中の僕の教室まで来たんだ。僕はホームルームの生徒に重要な書類を書かせていたから教室を離れるわけにはいかなかったんだ。それでパソコン教室の担当だったけれど特に確認しないで、事務から業者の方に連絡してもらったんだ。後で業者に嫌味を言われたよ。電源の入らなかったパソコンは、単に電源アダプターが外れていただけだったからと」
修の友人の高校教師の言葉が、裕一の耳元で聞こえたような気がした。裕一は一瞬後ろを振り向いてしまった。裕一は5台のパソコンの不具合の原因とそれに関して行った作業のデータを、ありのままにノートパソコンに打ち込んだ。特殊技能が必要でないのに必要であったかのように、いくらでも飾りをつけて書くことは可能であった。そうすれば請求する額をかなりあげることができた。しかし、裕一は不具合の原因とそれに対して行った作業を単純明快に書いた。請求書は出張費用と単純作業からなる安価なものとなった。請求書と報告書をプリンターから打ち出して事務に提出した。帰りの車の中で、さっきのノートパソコンにデータを打ち込む前、耳元で聞こえた修の友人のセリフに、その時は気付かなかったが、無伴奏ヴァイオリンの響きが背景で聞こえていたような気がしたことを思い出した。そしてそのセリフと音楽の響きと一緒に、瑞穂の映像が脳裏をよぎっていたことを思い出した。