魔力が強すぎる死にかけ公爵は、魔力ゼロの出来損ない王女をご所望です

第十三話 十秒だけ

「遠征…ですか?」
「ああ…急だが今日の夕方から一ヶ月留守にする」

 昼食前、自室で初代当主様の本を読んでいた私は、イリアム様の自室に呼ばれた。

 そこで突如告げられた言葉に、私は呆然とした。

 昨日公爵家に嫁いで来て、まだ一夜過ごしただけなのにイリアム様が長期で不在になるだなんて……

 離宮の使用人たちも順次公爵家に移ってきているため、顔馴染みの姿を目にすると安心するけれど、やっぱり慣れない場所で過ごす不安は拭えない。

 それに、国とイリアム様の利害が一致したための関係とはいえ、夫婦となったのだからもっとイリアム様とお話をして二人の時間を重ねたいと思っていたのに…

「その…危険な遠征なのですか?」

 おずおずと尋ねると、イリアム様はなんとも言えない表情をした。それだけで安全な旅路ではないのかしら、と不安な気持ちが募る。

「戦に行くわけではないからな、遠征自体に危険は伴わない。だが、問題は遠征先なんだ」
「どちらに行かれるのですか?」
「国中あちこちだ。どこも魔力の安定しない場所で、魔力の暴走による死者が多い地域だ」
「そんなっ…!」

 イリアム様は魔力が多く、先日魔力の暴走で倒れたばかりだというのに…そんな危険な場所に行って大丈夫なの?
 私に魔力を安定させる力があると言ってくれるけれど、流石に長期間魔力が充満した土地に滞在するのは命の危険が伴うのではないかしら……

「これは王命だ。俺もソフィアを一人残して長期間遠征に出ることは避けたいのだが、断ることができない」
「…っ!」

 私はグッと唇を噛んだ。
 イリアム様は眉根を下げて、私の表情を窺っている。急に遠征を命じられ、命の危険に晒されるイリアム様の方が、残される私よりもずっと不安で苦しいはず。私にできるのは、笑顔で見送り、この公爵家でイリアム様の無事を祈ることだけ。余計な心配をかけたくはない。

 私はふうっと小さく息を吐いて覚悟を決めると、パッと笑顔を作ってイリアム様に向けた。

「どうか、お気をつけていってらっしゃいませ!私はここでイリアム様のお帰りを待っています」
「ソフィア……」

 うまく笑顔を作れていると思うけれど、イリアム様の表情は晴れない。むしろ苦しそうに表情を歪めてしまった。

「ソフィア、俺はあなたにはもう我慢をさせたくない。あなたを置いて行く俺を罵ってくれてもいい、我儘を言って困らせてくれてもいい、どうか本音を聞かせてほしい」

 イリアム様がそっと私の両肩に手を乗せて、視線の高さを合わせてくれる。その優しさがじんわりと胸に沁みて、キュッと心が締め付けられた。

 深く碧い瞳を見つめていると、本音が漏れ出てしまう。

「…………私は、イリアム様が心配です」
「え?」

 絞り出すように伝えた言葉に、イリアム様が問い返す。

「私はいつまでだって待てます。無事に帰って来てくれさえすれば…ですが、魔力の濃いところに長期滞在するなんて、イリアム様のお身体が心配です」
「ソフィア…」
「唯一の我儘をお伝えするなら…お願いです、どうか…どうか無事に帰ってきてください」
「ああ、必ず。あなたの元に帰ってくると誓おう」

 イリアム様は僅かに目を見開いたあと、慈しみに満ちた瞳で私を見つめてくれた。
 私たちはしばらく見つめ合い、どちらからともなく微笑み合った。

「あっ、そうだわ!」

 私はつい先ほどまで読んでいた本の内容を思い起こして、手を叩いた。

「初代当主様の本に書いてあったのです。『封魔の力』は側にいる人の魔力を安定させる。そしてそれは触れ合うことでより効果を高める、と」
「ふむ、確かに昨夜手に触れていたからか、いつも以上に安らぎを感じたな。本にもそんなことが書かれていたと記憶している」

 今の私にできること。それは遠征前に少しでもイリアム様の魔力を安定させること。

「はい。ですので…イリアム様、少しの間私を抱きしめてはくださいませんか?」
「げっほげっほ!」

 私が両手を広げて微笑みかけると、イリアム様は盛大に咽せてしまった。
 私は慌ててその背をさする。イリアム様の背中をさするのもちょっと慣れてきたな、とこんな時ながら思わず笑みが漏れてしまった。

「な、なな、何を急に言い出すのかと思ったら…」
「私は真剣です。触れ合うことでより効果を発揮するのなら、手を繋ぐよりも抱擁の方が触れ合う面積は広く、効果も高いはずです!さあっ!」
「だ、だからといって…ソフィアは嫌ではないのか?その、俺と抱き合うのは」

 目を忙しなく泳がせるイリアム様の言葉に、私はゆっくりと首を振った。

「嫌なわけがありません。私はずっとイリアム様に憧れておりましたし、今は夫婦ですもの。旦那様との抱擁を疎う妻がおりますか?」
「ううう…だが……」

 今度は目を白黒させながら言い淀むイリアム様。私は再び両手を広げ、「さあ!」とイリアム様を待ち構える。

 イリアム様は観念したように片手で顔を覆うと、ピッと人差し指を立てて言った。

「では…十秒だけ、お言葉に甘えさせてもらう」
「分かりました!どうぞ!」

 パァッと顔を輝かせる私の背中に、イリアム様はおずおずと腕を回す。そして腰に手を添えると、ぐっと私の身体を引き寄せた。私も応えるようにイリアム様の背中に手を回すと、ふわりとコロンの香りが鼻腔をくすぐった。

 ぴったりと身体が密着し、イリアム様の少し早めの鼓動を感じる。呼応するように私の鼓動も忙しなくなっていく。

 じ、自分で言っておきながら急に恥ずかしくなってきた……!

 お互いに固まったように動けなくなってしまい、ドキドキと心音だけが耳に響く。時間が止まったように錯覚する。じわじわと恥ずかしくて頬に熱が集まって行くけれど、不思議と心地よくてもう少しこのままでいたいとも思う。

「…………もう十秒たっただろうか」
「わ、分かりません…自分の心臓がうるさくて数を数えるどころでは…」
「ぐぅ」

 正直に答えると、イリアム様は喉の奥で唸るような声を出した。呆れられたのかと思い、慌てて口を開く。

「さ、流石に十秒は経ったかと…」
「そ、そうだな。離れなければ…」

 イリアム様はそう言いながらも、私を抱きしめる力を強める。そのことにまた心臓が跳ねて、口から出てしまうのではないかと思うほどにうるさく騒ぎ立てる。

 顔が熱い。今なら頭で茶を沸かせそうだわ……

 なかなか離してくれないイリアム様に、私は都合のいい考えを巡らせる。


 ――もしかして、イリアム様も私と同じ気持ちなのかしら?離れ難いと、そう思ってくれているの?


「あの…」
「はっ!す、すまん…流石にもう…」
「いえっ、あの…もう十秒延長でも、よろしいでしょうか…?」
「んぐぅ」
「イリアム様っ!?」
「もちろんだ」

 再び唸り声を上げたイリアム様は、私の我儘を快諾してギュッと強く抱きしめ直してくれた。

 結局私たちは、昼食の用意ができたと呼びに来てくれたスミスさんが扉をノックするまでの間、もう十秒、もう十秒と抱きしめ合っていた。
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