魔力が強すぎる死にかけ公爵は、魔力ゼロの出来損ない王女をご所望です
【配信記念SS】スミスの微笑
コンコン、ともう十回以上はノックしただろうか。
主人の部屋の前で、急ぎの書類を抱えながら首を傾げるのはラインザック家の優秀な執事、スミスである。
グレーの髪を後ろに撫で付け、燕尾服を着こなす三十代半ばの優男。イリアムの頼れる右腕である。
結婚間も無く、卑劣な王女の策略により各地への遠征に駆り出された主人が戻って数日。極力ゆっくり休んで欲しいと思い、急ぎの仕事以外はスミスで捌いていたのだが、領地の予算に関わる内容となればそうはいかない。
もしや、うたた寝をしているのだろうか?
そうであれば風邪をひかないように毛布だけでもかけるべきか。
そう判断したスミスは、「失礼いたします」と断りを入れてから静かにドアノブを回した。
「……イリアム様? いらっしゃるのであれば返事をしていただければ良いものを……おや」
イリアムの執務室に入ると、部屋の主人は窓際で手元を見ながら佇んでいた。
イリアムは気配や音に敏感だ。それなのに何度ノックしても気付かないとは、やはり遠征の疲れが抜けきっていないのだろうか。
そう思って近づいたスミスは、イリアムの視線の先を確認し、思わず頬を緩めた。
「…………ん? なっ! スミス!? いつの間に……こほん、入る時はノックをするのが礼儀だろう?」
そこでようやくスミスに気づいたイリアムが、慌てて手に持っていたもの――ソフィアからの手紙を木箱へと戻した。
遠征時に妻のソフィアに手紙を出していたイリアム。
戻ってからその返事を無事に受け取れたと聞いていたが、どうやらよほど嬉しかったらしい。
んんっ、と咳払いをして取り繕ってはいるが、イリアムの目元はほんのり赤らんでいる。
お互い想い合っているのに、どこかよそよそしい二人。
スミスは近くで見守っている身としてもどかしく感じていた。
「ふふ、何度もノックをしましたよ? 仲がよろしいようで何よりです」
「う……そ、そうか? それで、何の用だ? 急ぎの案件でもあるのだろう。その書類か?」
「ええ、こちらを」
拳を口元に当てながら、分かりやすく話題を変えるイリアム。
彼が幼い頃より仕えているスミスは、イリアムを弟のように大事に思っている。若くして公爵位を継ぎ、膨大な魔力ゆえに長く生きられないと宣告されていた頃は、どこか生きることを諦めているような、そんな儚さを孕んでいた。
けれど、ソフィアと出会い、魔力が安定してからというもの、随分と表情も豊かになり生きる活力を取り戻したように見える。
イリアムは、スミスが差し出した書類を手に取り、パラパラとわざとらしく捲る。
「イリアム様、書類が逆さまですよ」
「…………分かっている」
慌てて取り繕っていたのだろうが、全く動揺を隠せていない。
スミスが笑いを堪えて指摘すると、バツが悪そうに唇を尖らせた。
想い人の一挙手一投足に翻弄される姿は、年頃の男そのものである。まあ、その想い人というのは妻のことなので、もう少し想いを言葉にしても良いのではないかと思うのだが。
澄ました顔で書類に目を落とすイリアムは、ひとつ頷くと素早く書類にサインをした。
「問題ない、これで進めてくれ」
「ありがとうございます」
用件を済ませ満足したスミスは、退室しようと頭を下げた。が、何やらヒシヒシと視線を感じる。
「……何か気になることでもございましたか?」
尋ねてみるも、イリアムは躊躇いがちに視線を泳がせている。こういう時はしばらく待っていれば、覚悟を決めた主人から言葉を切り出してくれる。
やがて、イリアムが重い口を開いた。
「……俺が留守にしている間、何か変わったことはなかったか?」
「いえ、報告した内容以外で特に気になることは何も」
「本当か?」
「何か不手際がございましたか?」
もしや、主人が不在にしている間の自分の仕事に不備があったのだろうか。
だからイリアムは言いにくそうに口籠もっているのだろうか。
叱責を覚悟し、自然と背筋が伸びる。
だが、そんなスミスの杞憂は一瞬で吹き飛ばされた。
「……いや、ソフィアが」
「奥様が?」
「…………出立前より、その、可愛くなっているだろう? 何かあったのかと思ってな」
「………………はあ」
僅かに身構えていたスミスは、思わず脱力してしまう。
何の冗談かと笑って返すべきか、と思ったが、イリアムの様子を見る限りどうも本気で言っているらしい。
――よもやこれほどまでに想いを燻らせていようとは。
どうやら結婚間も無く遠征で離れ離れになったことが、随分と彼の気持ちを深めたようだ。
普段は冷静沈着で王国一の魔法の腕を持つイリアムが、一人の女性にこれほど翻弄されるとは、長い付き合いのスミスでさえ予想だにしなかった。
だが、これは喜ぶべきことだ。人並みの幸せを諦めていたイリアムが、ようやく心から大切に想う相手を見つけたのだから。
いよいよ口元が緩むのを抑えきれなくなってきたその時、コンコン、と控えめなノックの音がした。
「入っていいぞ」
「し、失礼します」
イリアムがノックに応えると、静かに扉を開けて入って来たのは、イリアムの想い人であり、妻であるソフィアであった。
突然のソフィアの登場に、イリアムは目を見開いている。
「あの、すみません。お仕事中に」
「いや、気にしなくていい。それで、どうしたんだ?」
「えっと、実は本の内容で分からないことがあって……スミスさんを探していたんです」
おずおずと申告するソフィアが胸に抱いているのは領地経営に関する本だった。
今朝、ソフィアに領地経営について教えている時に勧めた一冊。早速目を通していたらしい。我が主人の奥方は随分と勉強熱心で教え甲斐がある。
うんうん、とスミスが頷いていると、イリアムの低い声が耳を掠めた。
「……………………スミスを訪ねに来たのか」
「え? はい、スミスさんに教えていただいた本の内容ですので……」
急に部屋の温度が下がった気がする。いや、気のせいではない。イリアムから冷気が漏れている。
ここはイリアムの執務室。自分を訪ねてきたのかと気持ちが浮ついていたのだろう。ところが、愛しの妻が夫ではなく執事のスミスを探していたというのだ。
ここはさっさと撤退すべきか。そう考えたスミスがソフィアに歩み寄ろうとしたより早く、イリアムが大股でスミスの横を通り過ぎていった。そしてソフィアの前に立つと、ひょいとソフィアの腕の中から該当の本を取り上げた。
「あっ!」
「この本の内容は俺もよく知っている。分からないことがあるのなら、俺が教える」
「ええっ!? そ、そんな……イリアム様のお手を煩わせるわけには……」
「いい。ちょうど手が空いたところだ。こっちに座りなさい」
「え、えっ……あ、ありがとうございます」
戸惑いながらもイリアムに勧められるがままに椅子に腰掛けるソフィア。スミスの目には、嬉しそうに瞳を潤ませ、口元が綻んでいるように見える。
そんなソフィアを見つめるイリアムもまた、目元を和ませ、僅かに頬を染めている。既に彼の目には彼女しか映っていないようだ。
……やれやれ。邪魔者は早々に立ち去るべきだな。
スミスは音を立てずに頭を下げると、素早く執務室を後にした。
一日でも早く、二人が想いを通わせる日が来るといい。
廊下を歩くスミスの足取りは、僅かに弾んでいた。
主人の部屋の前で、急ぎの書類を抱えながら首を傾げるのはラインザック家の優秀な執事、スミスである。
グレーの髪を後ろに撫で付け、燕尾服を着こなす三十代半ばの優男。イリアムの頼れる右腕である。
結婚間も無く、卑劣な王女の策略により各地への遠征に駆り出された主人が戻って数日。極力ゆっくり休んで欲しいと思い、急ぎの仕事以外はスミスで捌いていたのだが、領地の予算に関わる内容となればそうはいかない。
もしや、うたた寝をしているのだろうか?
そうであれば風邪をひかないように毛布だけでもかけるべきか。
そう判断したスミスは、「失礼いたします」と断りを入れてから静かにドアノブを回した。
「……イリアム様? いらっしゃるのであれば返事をしていただければ良いものを……おや」
イリアムの執務室に入ると、部屋の主人は窓際で手元を見ながら佇んでいた。
イリアムは気配や音に敏感だ。それなのに何度ノックしても気付かないとは、やはり遠征の疲れが抜けきっていないのだろうか。
そう思って近づいたスミスは、イリアムの視線の先を確認し、思わず頬を緩めた。
「…………ん? なっ! スミス!? いつの間に……こほん、入る時はノックをするのが礼儀だろう?」
そこでようやくスミスに気づいたイリアムが、慌てて手に持っていたもの――ソフィアからの手紙を木箱へと戻した。
遠征時に妻のソフィアに手紙を出していたイリアム。
戻ってからその返事を無事に受け取れたと聞いていたが、どうやらよほど嬉しかったらしい。
んんっ、と咳払いをして取り繕ってはいるが、イリアムの目元はほんのり赤らんでいる。
お互い想い合っているのに、どこかよそよそしい二人。
スミスは近くで見守っている身としてもどかしく感じていた。
「ふふ、何度もノックをしましたよ? 仲がよろしいようで何よりです」
「う……そ、そうか? それで、何の用だ? 急ぎの案件でもあるのだろう。その書類か?」
「ええ、こちらを」
拳を口元に当てながら、分かりやすく話題を変えるイリアム。
彼が幼い頃より仕えているスミスは、イリアムを弟のように大事に思っている。若くして公爵位を継ぎ、膨大な魔力ゆえに長く生きられないと宣告されていた頃は、どこか生きることを諦めているような、そんな儚さを孕んでいた。
けれど、ソフィアと出会い、魔力が安定してからというもの、随分と表情も豊かになり生きる活力を取り戻したように見える。
イリアムは、スミスが差し出した書類を手に取り、パラパラとわざとらしく捲る。
「イリアム様、書類が逆さまですよ」
「…………分かっている」
慌てて取り繕っていたのだろうが、全く動揺を隠せていない。
スミスが笑いを堪えて指摘すると、バツが悪そうに唇を尖らせた。
想い人の一挙手一投足に翻弄される姿は、年頃の男そのものである。まあ、その想い人というのは妻のことなので、もう少し想いを言葉にしても良いのではないかと思うのだが。
澄ました顔で書類に目を落とすイリアムは、ひとつ頷くと素早く書類にサインをした。
「問題ない、これで進めてくれ」
「ありがとうございます」
用件を済ませ満足したスミスは、退室しようと頭を下げた。が、何やらヒシヒシと視線を感じる。
「……何か気になることでもございましたか?」
尋ねてみるも、イリアムは躊躇いがちに視線を泳がせている。こういう時はしばらく待っていれば、覚悟を決めた主人から言葉を切り出してくれる。
やがて、イリアムが重い口を開いた。
「……俺が留守にしている間、何か変わったことはなかったか?」
「いえ、報告した内容以外で特に気になることは何も」
「本当か?」
「何か不手際がございましたか?」
もしや、主人が不在にしている間の自分の仕事に不備があったのだろうか。
だからイリアムは言いにくそうに口籠もっているのだろうか。
叱責を覚悟し、自然と背筋が伸びる。
だが、そんなスミスの杞憂は一瞬で吹き飛ばされた。
「……いや、ソフィアが」
「奥様が?」
「…………出立前より、その、可愛くなっているだろう? 何かあったのかと思ってな」
「………………はあ」
僅かに身構えていたスミスは、思わず脱力してしまう。
何の冗談かと笑って返すべきか、と思ったが、イリアムの様子を見る限りどうも本気で言っているらしい。
――よもやこれほどまでに想いを燻らせていようとは。
どうやら結婚間も無く遠征で離れ離れになったことが、随分と彼の気持ちを深めたようだ。
普段は冷静沈着で王国一の魔法の腕を持つイリアムが、一人の女性にこれほど翻弄されるとは、長い付き合いのスミスでさえ予想だにしなかった。
だが、これは喜ぶべきことだ。人並みの幸せを諦めていたイリアムが、ようやく心から大切に想う相手を見つけたのだから。
いよいよ口元が緩むのを抑えきれなくなってきたその時、コンコン、と控えめなノックの音がした。
「入っていいぞ」
「し、失礼します」
イリアムがノックに応えると、静かに扉を開けて入って来たのは、イリアムの想い人であり、妻であるソフィアであった。
突然のソフィアの登場に、イリアムは目を見開いている。
「あの、すみません。お仕事中に」
「いや、気にしなくていい。それで、どうしたんだ?」
「えっと、実は本の内容で分からないことがあって……スミスさんを探していたんです」
おずおずと申告するソフィアが胸に抱いているのは領地経営に関する本だった。
今朝、ソフィアに領地経営について教えている時に勧めた一冊。早速目を通していたらしい。我が主人の奥方は随分と勉強熱心で教え甲斐がある。
うんうん、とスミスが頷いていると、イリアムの低い声が耳を掠めた。
「……………………スミスを訪ねに来たのか」
「え? はい、スミスさんに教えていただいた本の内容ですので……」
急に部屋の温度が下がった気がする。いや、気のせいではない。イリアムから冷気が漏れている。
ここはイリアムの執務室。自分を訪ねてきたのかと気持ちが浮ついていたのだろう。ところが、愛しの妻が夫ではなく執事のスミスを探していたというのだ。
ここはさっさと撤退すべきか。そう考えたスミスがソフィアに歩み寄ろうとしたより早く、イリアムが大股でスミスの横を通り過ぎていった。そしてソフィアの前に立つと、ひょいとソフィアの腕の中から該当の本を取り上げた。
「あっ!」
「この本の内容は俺もよく知っている。分からないことがあるのなら、俺が教える」
「ええっ!? そ、そんな……イリアム様のお手を煩わせるわけには……」
「いい。ちょうど手が空いたところだ。こっちに座りなさい」
「え、えっ……あ、ありがとうございます」
戸惑いながらもイリアムに勧められるがままに椅子に腰掛けるソフィア。スミスの目には、嬉しそうに瞳を潤ませ、口元が綻んでいるように見える。
そんなソフィアを見つめるイリアムもまた、目元を和ませ、僅かに頬を染めている。既に彼の目には彼女しか映っていないようだ。
……やれやれ。邪魔者は早々に立ち去るべきだな。
スミスは音を立てずに頭を下げると、素早く執務室を後にした。
一日でも早く、二人が想いを通わせる日が来るといい。
廊下を歩くスミスの足取りは、僅かに弾んでいた。