古本屋・忘れな草
「ん……?」

 どれだけの時間が経った頃か、冬月さんが目を覚ました。
 その頃にはとっくに『こゝろ』は読み終わっていた。

 寝起きでも盛れているな、と呆けた思考回路にふと、悪戯心が差し込んだ。

「おはようございます。瞬さん」

 そう言うと、半分夢の中にいた冬月さんは完全に覚醒した。

「な、え……橘さん!?いや、どうして……名前」

 冬月さんは身体を起こし、私のことを凝視する。
 なんとも可愛らしい驚き方だ。

「肉体の方の冬月さんに会ってきたんです。お母さまにも会いましたし、手帳も見せてもらいました」
「手帳……?ああ、あれか」

 冬月さんは納得したように頷く。

「それより、君の名前を教えてくれないか。君だけ知っているのは不公平だろう」

——そんなこと気にするんだ……

「あれ、言ったことありませんでしたっけ。紗里奈です」
「そうか。紗里奈さん、か」

 そう言って冬月さんはふふ、と笑みを浮かべた。

——さん付け。年下なのに
 
 冬月さんは年上だからと威張ったりすることがない。
 むしろ最初は敬語だったぐらいで、身近な大人にはいないタイプで驚いた。
 
 けれど今はその丁重さが心地よい。

「紗里奈さんも、俺のことは名前で呼んで良いんだよ」
「それは、呼べということですか?」
「そういうことじゃないけれど。敬語よりはハードルが低いでしょ。それとも、揶揄うだけでしか呼べないの?」
「……瞬さん」

 耳元に血が上り、熱くなっているのを感じる。

 名前を呼ぶこと自体に抵抗感も羞恥心もないけれど、ここまで煽られると流石に色々と考えてしまう。

 冬月さん……いや、瞬さんはそんな私の姿がいっとう面白いようだった。

暖かな春みたいに笑う瞬さんを見ていると、病室で静かに眠る彼が雪のように冷たく、今にも崩れてしまいそうだったことを思い出した。

「瞬さん」

私は掘りごたつから出て、瞬さんのすぐ側に座り直した。

「どうしたの?」
「……父と母が、本当にすみませんでした。2人のせいで瞬さんの人生をめちゃくちゃにしてしまって……」

下げた頭に、ポンポン、という軽い感触が与えられる。

「紗里奈さんが謝ることじゃないよ」
「でも……。私、病室で肉体の方の瞬さんを見て初めて、両親のしたことがどれだけ惨いことなのか実感したんです。だから……」

次から次へと言葉が溢れ、自分でも何が言いたいのか分からない。

瞬さんが私の頭から手を離す。
見上げた時、彼はスンとした表情でいた。

「君だってあの夫婦に酷い仕打ちを受けている。それに比べたら、俺のされたことなんて、ね?」

ーー違う。そんなの……!

「失礼します」

私は弱々しく笑う瞬さんをそっと抱き締めた。

「紗里奈さん……」
「受けた傷は比較するものじゃないと思うんです」

抱き締める力を少しだけ強める。

「でも、傷が癒える方法はもしかしたら一緒かもしれないので……」

そう言うと瞬さんは私の背中に手を回し、服を掴んだ。

「紗里奈さん」
「はい」
「もう少し、このままでいても良いかな」
「もちろんです」

暫くの間、瞬さんは静かに涙を流していた。



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