月が綺麗な夜に。


 時刻は21時40分。
 呂律が回っていない集団の横を通り過ぎると、少し先に見えて来る赤提灯。『満腹苑』と書かれた暖簾(のれん)をくぐると、常連客らしき人が1人、小さな七輪をお供に焼肉と酒を楽しんでいた。

 女性が店へ入ると、カウンターに立っていた店主が「おぉ!」と声を上げる。「お疲れ様です、英治(えいじ)さん」と微笑みかけると、店主は嬉しそうにメニュー表を手に取った。



 パチパチ……と、炭が焼ける音が響く店内。
 時折2席向こうから聞こえる、ジュー……という美味しそうな音と匂いがお腹を刺激する。

 椅子が高くて足が床に届かない女性と、足が長すぎて机の裏に膝が当たる男性。デコボコな2人は、肩を寄せ合いながら1つのメニュー表を眺めた。

 時価。
 商品名と“時価”としか書かれていないメニュー表は、肉の油か何かで少しべたついている。


「英治さん、お勧めを適当にお願い」
「良いのかい、優佳(ゆうか)ちゃん」
「良いんだ。今日は彼の奢りだから」


 優佳ちゃん、と呼ばれた女性は、出された水を一気に飲み干して男性に視線を送る。それに気が付いた男性も眼鏡の奥でそっと微笑み、優佳の頭を優しく撫でた。


「優佳ちゃん、もしかして……彼氏?」
「うん、そう」
「……優佳ちゃんが彼氏を連れて来るのは初めてだね」
「そうだっけ。知らんなっ」


 店主は優佳と男性の間に小さな七輪を置き、よく冷えた生ビールとお通しも一緒に出した。

 パチパチ……パチパチ……

 弾ける火花を呆然と眺める男性。
 無言のまま見惚れていると、ふいに肩を叩かれ男性は体を飛び跳ねさせる。


「ほら、先生。乾杯」
「はい。君の瞳に……乾杯」


 手に持った生ビールを、カチンッとぶつけ合う。
 グイッと一気に飲み干す優佳と、泡だけを口に含みグラスを置く“先生”と呼ばれた男性。

 対照的な2人はお互いを見つめ合い、どちらからともなく微笑みを零した。


「優佳ちゃん、どこまで聞いても良いのかな」
「彼のこと?」
「そう」


 七輪の横に肉の盛り合わせを置きながら、不思議そうに男性を見つめる店主。男性が小さく頭を下げると、店主もまた頭を下げる。

 テレビもラジオも無い。
 静かな店内に響く炭の音。


須藤(すどう)裕孝(ひろたか)さん。元高校教師」
「元?」
「私の恩師。今は私が経営しているパソコン修理屋で、事務をお願いしているんだ。そして、私の彼氏」
「……情報が多いね」
「複雑なんだ。色々あるが故に」


 優佳に2杯目のビールを差し出すと、それもまたグイっと一気に飲み干す。隣で静かに肉を焼いている須藤の様子を、店主もまた静かに眺めていた。


 肉が焼け、香ばしい匂いが立ち昇り始める。
 手際よく食材を焼いている須藤は、焼けたものを次々と優佳の皿に乗せていた。


「先生も食べてよ」
「優佳さんからどうぞ。僕は可愛い君が食べている様子を眺めていたいのです」
「じゃあ一緒に食べるか」


 優佳は綺麗に両手を合わせ「いただきます」と軽く頭を下げて箸を持つ。須藤が焼いた肉を1枚掴んでその口に押し込み、もう1枚をまた掴んで、今度は優佳自身の口に入れた。

 (とろ)けるような柔らかさの肉。
 ジュワッと(にじ)みだす油と旨味で、思わず優佳の口角も上がる。


「英治さん、最高」
「ありがとう、優佳ちゃん。なんせ、今日のNo.1だからね」
「え、初手から1番良いお肉を出したの?」
「うん。1口目が1番美味い。その1番に相応しい、自信を持ってお勧めできるお肉だよ」
「ふぅん。商売上手だね、さすが英治さん」


 また1枚掴んで口に入れ、幸せそうに頬を押さえる優佳。
 その様子を眺める須藤もまた、幸せそうに眼鏡の奥で目を細めていた。



< 2 / 4 >

この作品をシェア

pagetop