夢の中
第3話
病院での検査のために三日間の療養休暇をもらい、間に土日を挟んで五日ぶりに会社に向かった。いつもは家から会社までの道のりが苦痛な時間であった。まず、家から駅まで一キロほどの歩道を歩いていくのであるが、毎日同じ人と目と目が合うのをさけながらすれ違っていく瞬間が何とも苦痛なのであった。時夫は自分が異常なほどに自意識過剰なのではないかと時々思ったりするのであるが、別にこのことだけのために医者やカウンセラーに見てもらおうなどとは思ってもいなかった。時夫が顔を上げると歩道の数百メートル先に彼がいつもすれ違う女性の人影が見えた。彼女の背後からは昇ったばかりの眩しい太陽が輝いていた。眩しい太陽の光を背後から一面に浴びた彼女の姿は影となって蠢いていた。全身影で真っ暗になった彼女の姿の中で、顔も影に隠れて表情が見えなかった。時夫と彼女が至近距離に近づいたとき。影の中から彼女の顔が浮かんできた。その顔からは太陽の輝きにも負けないくらいの笑顔が輝いていた。そしてその目は確かに時夫の目を見つめていた。彼女は時夫に向けて軽く会釈をした。彼女の口元から「お早う御座います」という、軽快な声の響きが聞こえてきた。時夫は思わぬ挨拶の言葉に返事も出来ずにその場に佇んでしまった。彼女はいつの間にか彼の前を通り過ぎてしまっていたのであった。時夫は佇んだその場から後ろを振り向いた。彼女が歩いていく後ろ姿が見えた。眩しい陽光が彼女の長い髪を照らしていた。彼女の黒髪の艶が陽光を時夫に向けて反射させていた。
時夫は子供の頃から女の子の前にでると顔が真っ赤になってしまう癖があった。そのため女の子に対しては思ったような言葉が出ないということがあった。時夫に向かって挨拶した女性はいつも彼が会社に行くときに駅までの道のりで出会うひとであった。それは彼が今勤めている会社に通うようになってから丁度1年経った4月であった。だいたい歩道の同じ場所でいつも出会うのであった。彼は彼女がいつの間にかとても気になるようになったのであった。肩までのびた黒髪、あらゆるものを吸い込んでしまうような黒い瞳、沈黙そのものを溶かしてしまうような唇の艶、これらの像が彼女とすれ違ってから時夫の脳裏にしばらく焼き付いて離れないのであった。そして今再び彼女とすれ違ったのであるが、今時夫の脳裏に残っているのは、そのような像ではなく、彼女が彼に発した言葉そのものであった。電車に乗っているときも、駅から会社に向かって歩いているときも彼女が彼に向けて発した言葉が彼の脳裏の中で快く響いていたのであった。
久しぶりに、会社に出てきた時夫の周りに同僚たちが集まってきて、みんながそれぞれに励ましの言葉をかけてくれた。同僚たちが自分の周りに集まってくることなど時夫にとって入社以来の事であった。時夫は自分の病気について真実をとても語る気にはなれなかったので、ほとんどの人には分からないだろうと思われる専門用語で埋め尽くされた検査のあれこれについて話した。同僚たちは自分たちと全く関係ない別世界のことを聞いているような顔をして時夫の話に耳を傾けていた。たとえ自分の病状を話すのであれ、自分が話の場の中心になることはめったにないことであったので、何か今までに感じたことのない満足感を覚えた。
時夫は子供の頃から女の子の前にでると顔が真っ赤になってしまう癖があった。そのため女の子に対しては思ったような言葉が出ないということがあった。時夫に向かって挨拶した女性はいつも彼が会社に行くときに駅までの道のりで出会うひとであった。それは彼が今勤めている会社に通うようになってから丁度1年経った4月であった。だいたい歩道の同じ場所でいつも出会うのであった。彼は彼女がいつの間にかとても気になるようになったのであった。肩までのびた黒髪、あらゆるものを吸い込んでしまうような黒い瞳、沈黙そのものを溶かしてしまうような唇の艶、これらの像が彼女とすれ違ってから時夫の脳裏にしばらく焼き付いて離れないのであった。そして今再び彼女とすれ違ったのであるが、今時夫の脳裏に残っているのは、そのような像ではなく、彼女が彼に発した言葉そのものであった。電車に乗っているときも、駅から会社に向かって歩いているときも彼女が彼に向けて発した言葉が彼の脳裏の中で快く響いていたのであった。
久しぶりに、会社に出てきた時夫の周りに同僚たちが集まってきて、みんながそれぞれに励ましの言葉をかけてくれた。同僚たちが自分の周りに集まってくることなど時夫にとって入社以来の事であった。時夫は自分の病気について真実をとても語る気にはなれなかったので、ほとんどの人には分からないだろうと思われる専門用語で埋め尽くされた検査のあれこれについて話した。同僚たちは自分たちと全く関係ない別世界のことを聞いているような顔をして時夫の話に耳を傾けていた。たとえ自分の病状を話すのであれ、自分が話の場の中心になることはめったにないことであったので、何か今までに感じたことのない満足感を覚えた。