ありふれたフラッシュ
美紀が一番苦手な科目である数学担当の、数多先生。
「失礼します。数多先生、これからお時間よろしいでしょうか」
放課後、いつものように声をかけると、職員室の真ん中辺りの席でコーヒーを飲んでいた数多が笑顔を向けてくる。
「最上さんお疲れ様。今行くからいつものところで待ってて。ていうかわざわざ聞きに来なくても、こっちから迎えに行くのに」
崩れ気味の髪、よれたYシャツ、机に積まれた大量のプリント類。彼こそ疲れているだろうに、いち生徒の勉強を快く手伝ってくれる。生徒想いで、熱心で、だからこそ教え方も分かりやすい。
「ここはこうだからこうなる。どう?」
「なるほど、よく分かりました」
「流石最上さん、覚えが早いね」
「いえ、だとしたらわざわざこんな手間かけさせてません」
「この問題は初見殺しだから当然だよ。多分皆も分かってないだろうけど、面倒で分かったふりしてるだけ。だからわざわざ聞きに来てくれる生徒がいること、先生は嬉しいよ」
「なら良かったです」
夕日に照らされた空き教室で先生と机を向かい合わせ、一対一で勉強を教えてもらうこの時間は、一日の中で最も有意義なひと時だ。普段の授業もこうだったらいいのにとつい思わざるを得ない。
けれどなるべく時間を取らせてはいけない。どうしても分からない部分だけ最小限教わったら、すぐに荷物をまとめて帰る準備をする。
「ありがとうございました」
「もういいの?」
「はい、後は自分で復習します」
「頑張るのは良いことだけど、頑張り過ぎも良くないよ。最上さんは十分成績良いんだからさ」
「いえ、まだまだです」
まだまだ頑張らないと先生には追いつかない。美紀は密かに、数多のような先生になりたいという夢を掲げていた。
「ひょっとして僕より頭良いかもよ?」
「そんな、恐れ多い」
顔の前で手をブンブン振ってみせると、数多は楽しそうに笑う。
「あはは、美紀さんは面白いね」
「美紀?」
「あっごめん、つい気が緩んで。最上さんといると落ち着くんだよ」
忙しい中付き合わされているにもかかわらず、落ち着くとは。意味がよく分からなかったが、美紀はとりあえずまた「それは良かったです」と返しておく。
「ねぇ最上さん、息抜きに雑談とかしていかない?」
「いえ、時間の無駄なので」
「雑談は無駄じゃないよ。それとも嫌かな?僕と話すの」
自分と話しても無駄だという意味で言ったのだが。確かにそう捉えられてもおかしくはない。真っ直ぐ見つめられて、美紀は申し訳なくなる。
「いえ、嫌ではないです」
「だよね。じゃあ何話そっか。無難に好きな食べ物とか?」
「えっと」
「好きな本でもいいし」
「そうですね」
「あとは趣味とか、特技とか、逆に嫌いなものとか……うわー聞きたいこといっぱいあるな。僕、最上さんのことまだ全然知らないからな──」
やっぱり美紀は雑談が苦手だと思った。本当は興味もないのに、気を遣って興味があるふりをする。それで実際答えて、気まずい空気になったことが何度もある。
美紀がクラスで浮いていることは、担任以外の先生が傍から見ても一目瞭然だろう。数多先生もそれを分かった上でこうして付き合ってくれている。それが同情か善意かは分からない。何も考えていないかもしれない。けれどとにかく、これ以上甘えるのは良くないと思うのだ。
本来、一人でもやっていけるのだから。
「あの、すみません」
「ん?」
実は今日、美紀は大きな覚悟を持って数多を呼び出していた。やけに重いリュックを背負うと、紐と共に拳を握り締める。
「塾の体験授業があるので、そろそろ失礼します」
「え、塾?」
きょとんとする数多に、美紀は「今更って感じですよね」と苦笑してみせる。
「いや、高3の夏だから丁度いいと思うけど。というか塾いる?って感じだけど。僕が教えるだけじゃ駄目かな?」
「それは」
「だって今どきの塾高いよ。ぼったくりだよ。僕ならタダだし、息抜きに雑談もできるよ」
どうしてそこまでしてくれるのだろう。
「あっお菓子、ご褒美のお菓子もつけるから。その為にも好きな食べ物教えてよ、ね」
なんだか焦っている数多を見て、先生としてのプライドが許さないのかもしれない、と美紀は結論付けた。昨今、塾があるなら学校はいらないという声も少なくない。いち教育者として何ができるのか、熱心な数多先生のことだから、日々懸命に悩んでいるのだろう。
そんな先生には申し訳ないが、やはり塾の方が気兼ねなく質問できて、成績が上がることは確実だった。
「すみません、もう決めたことなので。といっても今後も先生に質問することがあるかもしれませんが、休み時間の1分程度に収まると思います」
「い、1分……」
「いえ、収めます」
「そんな、遠慮しなくても何時間でも何十時間でも良いんだよ!何なら僕の家に来てでも……!」
「いえ、大丈夫です」
一瞬「ん?」と思ったが、冗談の一種だろうと気に留めないでおく。
「今まで本当にありがとうございました。そして今後も引き続き、皆の頼れる先生としてよろしくお願いします」
45度きっちり頭を下げると、ぴんと背筋を伸ばしてドアに向かう。
「皆の……うん……」
「あ、ちなみに好きな食べ物はいくらです。さようなら」
すっかり気を落とした様子の数多に、冗談のつもりでさっきの質問の答えを告げてから、静かに戸を閉める。
最後に数多がどんな顔をしていたかは分からなかった。別れはそれくらいが丁度いいだろう。そう、実際もう話しかけることもないので、実質別れである。
自分から別れを告げたくせに一抹の寂しさを覚え、それを誤魔化すように美紀は廊下を突き進んだ。
かくして変わった女子高生は、完全な一人ぼっちとなった。
「失礼します。数多先生、これからお時間よろしいでしょうか」
放課後、いつものように声をかけると、職員室の真ん中辺りの席でコーヒーを飲んでいた数多が笑顔を向けてくる。
「最上さんお疲れ様。今行くからいつものところで待ってて。ていうかわざわざ聞きに来なくても、こっちから迎えに行くのに」
崩れ気味の髪、よれたYシャツ、机に積まれた大量のプリント類。彼こそ疲れているだろうに、いち生徒の勉強を快く手伝ってくれる。生徒想いで、熱心で、だからこそ教え方も分かりやすい。
「ここはこうだからこうなる。どう?」
「なるほど、よく分かりました」
「流石最上さん、覚えが早いね」
「いえ、だとしたらわざわざこんな手間かけさせてません」
「この問題は初見殺しだから当然だよ。多分皆も分かってないだろうけど、面倒で分かったふりしてるだけ。だからわざわざ聞きに来てくれる生徒がいること、先生は嬉しいよ」
「なら良かったです」
夕日に照らされた空き教室で先生と机を向かい合わせ、一対一で勉強を教えてもらうこの時間は、一日の中で最も有意義なひと時だ。普段の授業もこうだったらいいのにとつい思わざるを得ない。
けれどなるべく時間を取らせてはいけない。どうしても分からない部分だけ最小限教わったら、すぐに荷物をまとめて帰る準備をする。
「ありがとうございました」
「もういいの?」
「はい、後は自分で復習します」
「頑張るのは良いことだけど、頑張り過ぎも良くないよ。最上さんは十分成績良いんだからさ」
「いえ、まだまだです」
まだまだ頑張らないと先生には追いつかない。美紀は密かに、数多のような先生になりたいという夢を掲げていた。
「ひょっとして僕より頭良いかもよ?」
「そんな、恐れ多い」
顔の前で手をブンブン振ってみせると、数多は楽しそうに笑う。
「あはは、美紀さんは面白いね」
「美紀?」
「あっごめん、つい気が緩んで。最上さんといると落ち着くんだよ」
忙しい中付き合わされているにもかかわらず、落ち着くとは。意味がよく分からなかったが、美紀はとりあえずまた「それは良かったです」と返しておく。
「ねぇ最上さん、息抜きに雑談とかしていかない?」
「いえ、時間の無駄なので」
「雑談は無駄じゃないよ。それとも嫌かな?僕と話すの」
自分と話しても無駄だという意味で言ったのだが。確かにそう捉えられてもおかしくはない。真っ直ぐ見つめられて、美紀は申し訳なくなる。
「いえ、嫌ではないです」
「だよね。じゃあ何話そっか。無難に好きな食べ物とか?」
「えっと」
「好きな本でもいいし」
「そうですね」
「あとは趣味とか、特技とか、逆に嫌いなものとか……うわー聞きたいこといっぱいあるな。僕、最上さんのことまだ全然知らないからな──」
やっぱり美紀は雑談が苦手だと思った。本当は興味もないのに、気を遣って興味があるふりをする。それで実際答えて、気まずい空気になったことが何度もある。
美紀がクラスで浮いていることは、担任以外の先生が傍から見ても一目瞭然だろう。数多先生もそれを分かった上でこうして付き合ってくれている。それが同情か善意かは分からない。何も考えていないかもしれない。けれどとにかく、これ以上甘えるのは良くないと思うのだ。
本来、一人でもやっていけるのだから。
「あの、すみません」
「ん?」
実は今日、美紀は大きな覚悟を持って数多を呼び出していた。やけに重いリュックを背負うと、紐と共に拳を握り締める。
「塾の体験授業があるので、そろそろ失礼します」
「え、塾?」
きょとんとする数多に、美紀は「今更って感じですよね」と苦笑してみせる。
「いや、高3の夏だから丁度いいと思うけど。というか塾いる?って感じだけど。僕が教えるだけじゃ駄目かな?」
「それは」
「だって今どきの塾高いよ。ぼったくりだよ。僕ならタダだし、息抜きに雑談もできるよ」
どうしてそこまでしてくれるのだろう。
「あっお菓子、ご褒美のお菓子もつけるから。その為にも好きな食べ物教えてよ、ね」
なんだか焦っている数多を見て、先生としてのプライドが許さないのかもしれない、と美紀は結論付けた。昨今、塾があるなら学校はいらないという声も少なくない。いち教育者として何ができるのか、熱心な数多先生のことだから、日々懸命に悩んでいるのだろう。
そんな先生には申し訳ないが、やはり塾の方が気兼ねなく質問できて、成績が上がることは確実だった。
「すみません、もう決めたことなので。といっても今後も先生に質問することがあるかもしれませんが、休み時間の1分程度に収まると思います」
「い、1分……」
「いえ、収めます」
「そんな、遠慮しなくても何時間でも何十時間でも良いんだよ!何なら僕の家に来てでも……!」
「いえ、大丈夫です」
一瞬「ん?」と思ったが、冗談の一種だろうと気に留めないでおく。
「今まで本当にありがとうございました。そして今後も引き続き、皆の頼れる先生としてよろしくお願いします」
45度きっちり頭を下げると、ぴんと背筋を伸ばしてドアに向かう。
「皆の……うん……」
「あ、ちなみに好きな食べ物はいくらです。さようなら」
すっかり気を落とした様子の数多に、冗談のつもりでさっきの質問の答えを告げてから、静かに戸を閉める。
最後に数多がどんな顔をしていたかは分からなかった。別れはそれくらいが丁度いいだろう。そう、実際もう話しかけることもないので、実質別れである。
自分から別れを告げたくせに一抹の寂しさを覚え、それを誤魔化すように美紀は廊下を突き進んだ。
かくして変わった女子高生は、完全な一人ぼっちとなった。