ありふれたフラッシュ
 なんとか届けたはいいものの、ふらつきがすごい。ふいに倒れそうになって、咄嗟に壁に手をつく。

「おっと!?」

 壁だと思っていたそれは声を発してぐらついた。

「わっ」

 小さく声を漏らしながら、美紀も結局倒れる羽目になる。
 下敷きになった人は、運が良いのか悪いのか、数多先生だった。

「す、すみません」

「ううん。久しぶりだね最上さん。元気?まぁ見るからに元気じゃなさそうだけど」

 数多は夢で見たのと同じような、素に近い笑顔を浮かべていた。授業ではいつも顔を合わせているので、久しぶりとはこの場合『二人で話すのが』という意味だろう。
 お久しぶりです、そう返そうと思ったが、職員室の前ではなぜだか気が引けた。
 本当になぜだろう、やましい気持ちなんてないはずなのに、これではまるで、あるみたいだ。
 美紀が急いで退けるのと同時に、数多もすぐに立ち上がった。人が通るから当然の対応なのに、なぜか寂しさを感じる自分がいる。本当にどうかしている。
 気まずいし特に話すこともないので、美紀はさっさと帰ることにした。

「さようなら」

 頭を下げ、顔を見ずに背を向ける。
 また逃げに走った。
 仕方ない、自分はそういう人間なのだから。いつものように開き直り、でも少し泣きそうになって歯を食いしばる。
 ──その時、数多の声が身体を貫いた。

「言わなかったんだね、あのこと」

 途端、電流が走ったようにぶわりと全身に鳥肌が立った。
 夢じゃなかった。
 それは恐怖というより、高揚だった。前を向いたままこくりと頷くと、数多のスリッパの音が近付いてきて、真横で止まった。

「どうして?」

「夢だと思ったからです」

 美紀は正直に答えた。

「え、何それ」

 戸惑った声。冗談かと顔を覗き込んでくる。

「本当に?」

「本当です。私、嘘はつきますが冗談は言いません」

 数秒の沈黙の後。

「あっはは、やっぱり美紀さんは面白いなあ!」

 数多は手を叩いて笑った。いや、名前呼び。通りがかった先生が何事かとこちらを振り返るが、数多は気にも留めない様子だ。なんとも晴れやかな顔をしている。夏休みだからだろうか。でも教師に夏休みなどなかったはずだが。

「美紀さん今帰るところ?」

「はい」

「丁度良かった、一緒に帰ろう」

 『一緒』というワードに心臓が反応しつつ、美紀は真顔のまま尋ねる。

「もう上がりなんですか?」

「うん。ていうか辞めた」

「え?」

「よし、そうと決まれば行こうか」

 数多は平然と美紀の肩に手を回して歩き出す。これは開き直りなのか、何なのか。常軌を逸しすぎていてどう反応したらいいか分からない。

「どうしてですか」

「そんなの決まってるじゃん、美紀さんともっと一緒にいたいからだよ」

 一緒一緒って、思春期の女子じゃあるまいし。自分も思春期の女子だから、いちいちこんなに鼓動が早くなるのだろうか。

「本当ですか」

「どっちだと思う?」

 冗談だとしても取り返しがつかない。自分のせいで先生の人生が変わるなんて、皆が先生の面白い授業を見れなくなるなんて、先生の授業が自分だけのものになるなんて、そんなの──
 そんなの、最高すぎる。
 最低なことをはっきりと思うと同時に、ふとあの漫画の台詞が脳内に流れた。

『先生と一緒なら、地獄も天国も変わりませんよ』

 その言葉に無性に惹かれる理由が分かった気がする。美紀も今、同じ気持ちだ。
 廊下を並んで歩きながら覚悟を決める。

「本当に私でいいんですか」

「本当だよ。その証拠に」

 数多は耳元で囁く。

「さっき押し倒された時、職員室の真ん前で思わず勃っちゃったよ」

 なるほど、だから早く立ち上がったのか。他人事のように納得して、美紀は「そうですか」とだけ返す。

「気持ち悪くないんだ?」

「別に、生理現象ですし」

「でも生徒に対してだよ?」

「生徒じゃなくて、私ですし」

 言い切ってから恥ずかしくなる。確実に顔が赤くなっているだろう。その様子を見て、数多はわざとらしく呟く。

「やっぱ真面目な子ってチョロいな」

「ですから、私は不真面目です」

 美紀も負けじと返す。

「僕と一緒だね」

 数多の手に熱がこもる。誰もいない下駄箱前で。
 流石に鬱陶しかったので、美紀はその手を振り払った。

「違います」

「えっ一緒じゃないの?」
 
 きょとんとする数多の先を行き、手際良く上靴をビニール袋に入れてスニーカーに履き替えながら、淡々と告げる。

「不真面目なのは一緒ですが、別に私は先生のこと好きじゃありませんから」

「えっ好きじゃないの!?」

 素っ頓狂な声が響き渡る。逆に何だと思っていたのか。

「あ、それと先生じゃなくて“数多さん”ですね」

「一成さんって呼んで!!」

「嫌です」

 数多を置き去りにして外に出る。輝かしい太陽、一面に広がる青空、大きな入道雲。最高で最低な夏休みの始まり。
 やはり自分はダサくて、怖くて、よく分からない変人だ。でも充実していないわけではないし、完全な一人ぼっちでもない。
 似たような人が、同じ空の下にいる。そう思ったら、久しぶりに少し、身体が軽く感じた。

〜続きなし〜
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