売り飛ばされた孤独な令嬢は、怪物公爵に愛されて幸せになる

 こうして私は、公爵城へと向かうことになりました。

 心配なのは、お母様が掃除も洗濯も炊事も苦手だということです。私がいなくなれば、他に家事をする人はいないので、お屋敷が荒れるのは想像に難くありません。でも家を出る私が気がかりに思っても、仕方のないことでしょう。

 荷物はほとんどありませんでした。私の生活のすべては、馬小屋に押し込められる程度のもので成り立っていたからです。替えの下着と肌着、手元に残していた野菜の種、お母様から預かったお手紙と硬貨だけを布鞄に入れて、小屋を出ます。

 着ているのは継ぎ接ぎだらけのワンピースドレスに、底に穴の開いたブーツ。自分でもため息が出るくらい粗末な格好です。
 やはり、こんな私が公爵様の花嫁になるというのはどう考えても無謀です。それでも、お母様に命じられた以上は望み薄でも出立するしかありませんでした。

 お母様はまだ眠っているようで、見送りはありません。お世話になった牛舎のおじいさんたちにはお別れの挨拶をしたいですが、お母様の言いつけを思いだすと(はばか)られました。

 お母様からは、喋れない娘なんて周りにばかにされるのだから、誰とも交流しないようにときつく言い含められています。でも悪い子の私は、約束をこっそり破っているのです。

 一抹の寂しさを感じながら、私はひとり新緑の小道を歩きだします。まだ冷たい春の風を浴びて、木漏れ日の揺れる道をまっすぐ進んでいけば、前方に隣町への馬車が出ている駅が見えてきました。

 今まで、住んでいた街を離れることはありませんでした。もちろん馬車に乗るのも初めてのことです。そんな場合ではないのに、ドキドキしちゃいますね。
 それなのに馬車に乗ると、なぜか懐かしいと思います。いつ、どうして乗ったんだったか……思いだそうとすると頭痛を覚えて、私は顔を(しか)めました。

 馬車には各地を旅するという吟遊詩人の方が同乗していました。子どもたちにせがまれた彼は、弦楽器を爪弾いて語り聞かせます。その音色が、私の頭痛を忘れさせてくれました。


 ……北の山脈に住む魔物
 人を痛めつけ 喰らい殺す おぞましい悪魔たち
 だが爪と牙を振るって跋扈する魔物より
 恐ろしいのは怪物 怪物公爵
 残忍で冷酷な男は ひとたび剣を抜けば魔物の胸を貫き
 返す刀で 次なる獲物の骨を断ちきる

 空に毒々しい三日月が浮かぶ 長く永い漆黒の夜
 (むくろ)転がる荒野に ひとり立つは怪物公爵
 彼の全身からは 夥しいほどの魔物の返り血が滴り落ち
 その双眸は血よりも濃い赤色を宿して 今宵もお前を凝視する……


 歓声を上げる子たちもいますが、中には泣いて怯える子もいます。魔物より恐ろしい人なんて言うからだと、私はひとり頬を膨らませていました。

 乗合馬車に乗るお金はお母様からいただいていましたが、それは三つ目の街に着いたところで尽きてしまいます。私は立ち寄った街のお店で雇ってもらい、皿洗いや床掃除で日銭を稼ぎながら、さらに北へと移動していきました。

 スール国は国王陛下が統治する中央、四大公爵が治める東西南北からなる、五つの地域に分けられています。北領の特徴は、南北に平行して山々が連なる、山岳地帯――北方山脈が広がっていること。山麓の河川沿いには、自然の力で扇状地が作られます。ここにいくつもの街や都市が築かれているのです。

 山岳地帯に近づくにつれて、少しずつ気温は下がっていきますが、道を行き交う人の数は増えていきます。看板や店構え、店に並ぶ商品、通りを歩く人の格好も明らかに洗練されていきます。
 今まで小さな街を出たことのない私にとっては、目新しいものばかりでした。これでも北領はスール一の田舎と呼ばれるのですから、絢爛豪華だという王都に一歩でも足を踏み入れたら、私なんて驚いて気絶してしまうかもしれません。

 そして花嫁募集の時期が冬でなくて良かった、とも思います。もしも季節が冬であったら、お金のない私は道中で凍え死んでいたかも分かりませんでした。

 北領最大の都市に着いたのは、出立から七日後の昼のことです。
 長旅で痛む腰やお尻をさすりたい気持ちを抑えて、私は馬車を降りました。

 そうして手庇(てびさし)をして青い空を見上げたとき、口をあんぐりと開けてしまいました。まだ距離があるというのに、雪の溶けかけた山脈を背負う高い尖塔が見えていたからです。

 わぁあ…………。
 山の一部を切り開いて建設されているのは、とにかく大きなお城でした。それに高くて立派です。広さでいえば、私が住んでいた馬小屋が千棟……いえ、もっともっといっぱい入るかもしれません。

 お城を囲うように、びっくりするくらい高い城壁が作られています。難しいことは分かりませんが、砦のみならず公爵城も、魔物に対抗する要塞としての役割を受け持っているからでしょう。

 このお城は、今まで私がお城という建造物に対して抱いていた優雅で壮麗、というイメージとはまるきり違っていました。
 夜な夜な宴会や舞踏会が開かれて、きらびやかに着飾った男女が手を取り合って踊るようなお城とは無縁の……城下の人々を守るための、最後の砦。クラディウス公爵城は、勇ましく堅牢な城でした。まるで、物語の中で語られる公爵様そのもののように。

 私は胸の高鳴りを感じながら、意気盛んに歩きだします。
 お城に向けて傾斜のある道は、小道が多く、曲がりくねってもいるので、何度か迷ってしまいました。お城を見据えて歩いているつもりでも、気づくと外れた位置に出てしまいます。

 たぶん、大量の魔物が列をなして侵攻できないように。それに、小道に伏兵を忍ばせるためでしょうか。詳細な地図を把握していないと、迷わず進むのは不可能のように思います。
 人に道を尋ねようにも、表情や仕草だけではなかなか質問が通じません。

「分かるよ。ちょっと古いが、立派な城だよな」「北方山脈を指さすなんて、やめたほうがいいわ。魔物があなためがけて襲ってくるかもしれないわよ」「そうだのう、空が青いのう」……ううっ、思った通り伝わりません!

 あちこち行ったり来たりしながら、私は苦労してお城の正門前へと辿り着きました。
 見上げるほど大きな門の先には、石畳の路が続いています。
 でも背伸びして観察している暇もありませんでした。槍を持つ門番さんたちが、私を不審そうに眺めていらっしゃるからです。

「なんだ、お前は」
「公爵城になんの用だ?」
「!」

 私は慌てふためきつつ、布鞄から手紙を取りだします。
 ぺこぺこしながら差しだすと、なんとか受け取ってもらえますが……門番さんたちは、すぐに手紙から視線を外してしまいました。

「騎士団のお戻りだ」

 彼らの見やる方向に目を向けると、最初に見えたのは土煙でした。
 市街地ではなく、山道を駆け下りてくる一団は――代々のクラディウス公爵様が団長を務められるという、魔物討伐の任に就く風狼騎士団でしょう。

 どうやら遠征から一部の隊が戻られたところのようです。それにしても、百頭近い馬が隊列を組んで駆ける様子は圧巻でした。

 先頭には、一際立派な体躯をした黒毛の馬にまたがり、マントをなびかせる騎士様のお姿があります。よく目を凝らそうとすると、門番さんに腕を引っ張られました。

「おい、危ないぞ。そこにいたら蹴られる」
「!?」

 馬の一蹴りを喰らえば、私なんて一溜まりもありません。慌てて後ろに下がると、そのまま通りすぎようとしていた黒毛の馬が、ひひん、といなないて足を止めます。す、すごい迫力です、本当に蹴られたらおしまいですね!

「騎士団長並びに第一、第五番隊の皆様。よくぞご無事で!」

 門番さんたちに敬礼された方は軽く頷いてみせてから、どうやら私を見下ろしたようでした。
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