売り飛ばされた孤独な令嬢は、怪物公爵に愛されて幸せになる
「――なんだ、この子どもは」
逆光になって、太陽を背負う方のお姿はよく見えませんが、きっとこの方がギルバート・クラディウス公爵様……。
私は首の後ろが痛くなるくらい上を向いて、目を眇めます。奥底に苛立ちをにじませた、低く掠れた声音だけが続けて私の耳朶を打ちました。
「さっさと摘まみだしておけ」
命じられた二人の門番さんが、顔を見合わせます。
その手に握られた手紙に気づかれたのか、公爵様は後続に手を振って指示を出されました。二人と二頭を置いて、他の騎士様たちを乗せた馬がかっぽかっぽと城の敷地へと戻っていきます。
「スウェン」
呼ばれたのは、涼しげな目元をされた年若い男性でした。背には弓と矢筒を背負っています。薄い金色の髪は、首の後ろでひとつに括られていました。
その男性――スウェン様が、馬上で手紙を受け取ります。ナイフで封を解くと、中身にさっと目を通します。
「これは……ものすごい悪筆ですね」
スウェン様はさっそく眉を顰めていました。お母様の字が読みにくいようで、申し訳ございません……。
数秒後、スウェン様は文面から目を上げます。
「団長。どうやらそちらの方は、オスティン男爵家のご令嬢……メロディ・オスティン様のようです。母親からの手紙にそう書かれています」
「!」
急に名前を呼ばれた私は、はっと姿勢を正します。
ただいまご紹介にあずかりました。メロディ・オスティンと申します――街で見かけたことのある淑女の礼を真似て挨拶します。
「オスティン家? 聞いたことがないが」
北領の貴族といっても、名ばかりの貧乏貴族です。公爵様がご存じないのも当然かと……。
「それで? 男爵家の令嬢が何用だ?」
「先月十六歳を迎えたので、公爵家の花嫁として迎え入れてほしいとのことです」
スウェン様の要約を、公爵様は鼻で笑われます。
「まさか本当に、俺のところに娘を送り込んでくる母親がいるとはな。よほどの命知らずか、口減らしのつもりか」
「ひとりでもお越しいただけて、僕はほっとしていますがね」
スウェン様は呆れ顔をしていらっしゃいます。軽い口調のやり取りからして、お二人はとても近しい間柄なのかも。
それにどうやら、花嫁候補が募集されてから公爵城にやって来たのは私が初めてのようです。これはもしかすると、公爵様に受け入れていただける可能性大なのでは……!
「それはいいとして、これのどこが十六歳だ。栄養失調の子どもでも、もう少しまともに育つだろう」
「…………」
前言撤回です。やっぱりだめかもしれません。
「それに、なぜ先ほどから喋らない。挨拶くらい口にしたらどうだ」
私は申し訳なさから、ひたすら平身低頭するしかありません。
どうやらお母様は、私が声を持たないことをお手紙に書き忘れてしまったようです。
これは困りました。いつものように、口をぱくぱくしての身振り手振りで伝わるでしょうか。怪しい動きをすれば、即座に腰に佩いた剣で斬り捨てられてしまうのでは?
どぎまぎする私の前で、公爵様が唐突に馬の背からひらりと下りられます。
ようやくその方の容姿を目の前にしたとき、私は硬直していました。
「…………っ!」
もしも私が声を持っていたとしても、その方を前にすれば言葉はことごとく奪われていたことでしょう。それほどの感動が、私を包み込んでいました。
なんて――なんて美しい方なのでしょうか。
艶めく短い銀髪に、紅の瞳。抜き身の刃に似た鋭い雰囲気をお持ちでありながら、彫刻のように端整な顔立ちをしていらっしゃいます。
険しい目つき、長い睫毛。すっと通った鼻筋に、薄い唇。光沢のある黒鎧をまとっていても筋肉の盛り上がりがはっきり分かるほどに、鍛え上げられた肉体……。
頬が熱を持ち、逆上せたようになります。私はすっかり、目の前に立つ騎士様に見惚れていました。
お母様は確か、額に大きな瘤があって、鼻は潰れており、体毛が分厚く、豚にも蛙にも見える殿方こそ公爵様だとおっしゃっていましたが……それはきっと、神々しい美貌に嫉妬を抱かれた方々が流した心ない噂なのでしょう。
すると背の高い公爵様が私を見下ろし、訝しげに目を細められています。その瞳の色は、そう、まるで――まるで、柘榴の実のようにきれいで。
……いえ、柘榴というよりは林檎でしょうか。それも赤く熟して、甘さをたっぷり溜め込んだ林檎です。そんな特別に瑞々しい色を、目の前の公爵様は持っているのです。
ああ、公爵様の目を見つめていたら、無性に林檎が食べたくなってきました。そういえば果物を最後に食べたのは何年前のことでしょう。なんて食べ物に思いを馳せてばかりいると、また卑しん坊だとお母様に怒られてしまいますよね。
そんなことを考えている私の前で、なぜか公爵様は目を見開いています。驚かれているようにお見受けしますが……いったい、何に?
ああ、それにしても、驚いた顔もびっくりするくらい美麗で――。
「……黙れ」
「っ?」
私はとっさに、動いてもいない唇を両手で押さえつけます。
ですがきょろきょろと周りを見たところ、スウェン様も門番さんも、どなたも喋ってはいないご様子です。それなら、この見目麗しい方は誰を注意して――?
「それ以上、その口を開くなと言っている」
「っっ?」
ど、どういうことでしょう。もしかして公爵城に立ち寄った妖精が、麗人にしか聞こえない声で囁きかけているとか……!
「! だから、黙れと言っているだろうッ!」
「っっっ!」
一喝された私はその場で跳び上がり、ぺこぺこと平謝りします。
というのも公爵様の輝かしい双眸は、先ほどからずっと私を捉えているのです。私は理解力に乏しい人間なので、その意味に気づくのに時間がかかってしまいましたが。
つまり、公爵様は――私の顔がうるさい、とおっしゃっているのです!
公爵様は、何よりも静寂を尊ばれる方。花嫁に求める唯一の条件が『静かであること』なのですから、それは疑いようがありません。
それなのに私は、未だかつて目にしたことがないほど凜々しく麗しい公爵様を前にして、恥ずかしげもなく浮き足立ってしまいました。そんな私の表情や仕草は、この上なく煩わしいものだったはずです。
気がつけば公爵様は焦ったように口元に手を当てていて、周りの門番さんたちも困惑の表情を浮かべていますが、私は布鞄を持つ手にぎゅっと力を込めました。
顔がうるさい私の第一印象は最悪。すでに公爵様をご不快にさせているのは百も承知。それでも帰る家がない私は、このまま追いだされるわけにはいきません。
「~~っ!」
ぎゅうっと目蓋を閉じ、必死に念じます。
静か、静か、静か、静か……っ。公爵様を煩わせないために、私よ、静かであれっ。
公爵様がかっこいい方だからといって、はしゃいではだめ。静かに、もっと静かにっ。心の中でうんうん唸りながら集中し続ける私に、公爵様がどこか唖然としておっしゃいます。
「おい、なぜ呼吸をしていない」
「?」
ご指摘を受けてようやく、自分が息を止めていることに気づきました。
どうやら酸欠状態になっていたようです。自分でも、顔からすーっと血の気が引いているのが分かります。
ふらつく私の肩を、いつの間にか馬から下りていたスウェン様が後ろから支えてくださいました。
「団長が『黙れ』なんて言うからでしょう。オスティン男爵令嬢は、あなたの命令に従おうとしたんですよ」
どこか責めるような語調のスウェン様に、公爵様は唇を歪めます。なんだか親に叱られた子どものよう……なんて思っては、公爵様に失礼ですね。
公爵様が、少し顔色のマシになった私を見やります。
「喋れないのか」
「!」
出し抜けに問われた私は、驚きつつこくこく頷きます。
「そうか」と相槌を打ち、それっきりでしたが、それだけのことが嬉しくて堪りません。公爵様は、ちゃんと私の仕草の意味を読み取ってくださっていたのです。
「それで、団長。どうされるのです?」
その問いかけに、ぷいと顔を背けた公爵様――ギルバート・クラディウス様は、馬の手綱を引きながら答えました。
「三時間後に式を挙げる」
少し意外そうにスウェン様が片眉を上げますが、異を唱えることはありません。
「承知しました。それではオスティン男爵令嬢、我々についてきていただけますか。まだ気分が悪いようなら、馬に乗っていただいても構いませんが」
なんだか私を置いて、話がどんどん進んでいっています。
どうやら追いだす方向で話がまとまったわけではなさそうで、それはありがたいのですが……。
遅れて話の内容を理解した私の頬を、たらりと汗が流れていきます。
さ、三時間後に結婚式、ですか?