マイナスの矛盾定義
私たちに薄く見せる感情の奥に、何重にも本当の思考を隠しているようで。


きっとキャシーもそう感じているんだろう。




「あの方に価値ある人間だと自覚させたいのに、できませんわ。…私、どうしたらいいんですの」



ぐすっと鼻を啜るキャシー。


彼女にとってふられたことは重要じゃない。


ただ…シャロンが自分のことをそんな風に言うのが悔しいのだ。




――そして、それは私も同じ。
「…行くわよ」


「え?」


「シャロンの所に。ほら」


「え?ちょっ…」



戸惑うキャシーの手を引っ張って、部屋を出る。


そのまま真っ直ぐシャロンの部屋へ。

私は腹が立っているのかもしれない。

自然と歩くペースが速くなる。


価値がない?好かれる資格がない?馬鹿じゃないの。


この組織のリーダー。

構成員5000人を牛耳るトップ。

圧倒的な指導力は若い頃の先代も顔負けなほど。


そんな人間に好かれる資格がない、ね…無自覚も大概にしなさいよ。


いつも怠惰な人間がいざ何かする時となると明確な指示を出し、何もかも成功させてしまうその様には、この組織の誰もがある種の恐怖を感じている。


いや、恐怖とは少し違う。畏敬の念を抱いているのだ。






「シャロン」


ノックもせずにドアを勢いよく開けた。


キャシーの細い手首を離し、つかつかとシャロンの元へ近付いていく。
悠々と椅子に座っていたシャロンの胸倉を掴んだ。


「っざけたこと抜かしてんじゃないわよ」



私の声が広い室内に響く。

いつもより大分低いような気がした。


どうせなら殴ってやりたいくらいだけど、それは今私がやることじゃない。



「私たちにとって価値ある物を否定するのは、私たちを否定することと同じじゃない」


「…何、どしたのぉ」


「キャシーは真面目に貴方を好きだって言ってるの。あなたのしていることは返事じゃなく論点のすり替えじゃない」



苛立っている私を、キャシーが狼狽しながらも止めにかかる。



「わ、悪いのはシャロン様じゃありませんわ」


「ちゃんとキャシーの気持ちを理解しようとすることすらしないのね」



それでも私は彼女の方を一切見ず、蔑むようにシャロンを批難した。


睨み合うように、シャロンと視線が絡み合う。


ダークブラウンの瞳が気に食わなそうに私を見上げていた。


やけに威圧感があり、目を逸らしたくもなってしまうけれど…絶対負けない。
何秒そうしていただろう。シャロンは降参とでも言うように溜め息を吐き、私から視線を外した。



「…キャシー」


「は、はい」


「キャシーの気持ちを疑ってるわけじゃないよ」


「……はい」


「俺のことを好きって想ってくれてるのは嬉しいけどぉ、…受け取れない。キャシーのことは好きだよ。でも、それは他のメンバーにも言えることなんだよねぇ」



暫く沈黙が流れる。次の言葉を待つように、シャロンはちゃんとキャシーだけを見ていた。



「…そういう人だからこそ、私はシャロン様のことを好きになったんですわ」


「……」


「貴方は価値ある人間です。私だけじゃなく…もっと沢山の人がそう思ってます」



じわり、と。キャシーの目尻が濡れていく。


「…で、では!」


それを隠すようにして、キャシーは部屋から出て行った。
残ったのは私たち2人。


夜の静けさが、廊下を走っていくキャシーの足音を目立たせている。


言いたかったことを言えたのだ。


きっと彼女も、今夜は満足して眠れるはず。



「俺って酷い人間だよねぇ」


「…そうかしら?ちゃんと向き合ってあげられたじゃない。それに、キャシーはふられたくらいで諦めるような子じゃないわ。貴方も知っているでしょう」


「そうじゃなくてさぁ。俺の価値ってなんなのか、全っ然分からないんだよねぇ」




少し掠れた声が重く響いた。


届かない。

届いていない。

私たちが何を言っても、この人には。



「アリスやキャシーにこれだけ言われてもまだ理解できないのは、俺が悪い人間だからかなぁ?」



ここで私が否定しようが肯定しようが、シャロンはきっと自分の考えを変えないだろう。


…言葉って難しいものね。

シャロンの言う“悪い”がどういう意味か分からないなんて。


分からないから、自分も相手も納得するような否定の言葉を考えられないなんて。
「アリス」


「…何よ」


「嘘でもいいからさぁ、今ここで愛してるって言ってくれないかな」


「は?」


「俺のこと抱き締めて、一番好きだって言って。俺がどんな人間だろうが、…愛してるって言ってよ」



欲望の押し付けと捉えるべきか、弱音と捉えるべきか。



クーラーを付けずに窓を開けているこの部屋に、風が吹き込んだ。


きっと本人は自分の思考を隠しているつもりなんてない。


周りの人間である私たちが勝手にそう感じているだけかもしれない。


――彼の思考の奥深さに恐怖を感じているのは、たまに薄気味悪く感じているのは、多分私だけなんだろう。



風が私の髪を揺らし、その先端がチクリと首の後ろをなぞる。



私は、



「…それはできない」


はっきりとそう言ってかぶりを振った。
そんな台詞言ったこともない。


そんな重く無責任な言葉を他人に、シャロンに対して吐けない。



でもこれじゃシャロンは納得しないわよね…なんてうんざりしながら考えていると、シャロンはあっさりと言った。


「いいよぉ?別に今は。そのうち言ってもらうしぃ」



クスクスと笑う目の前の男に少しの驚きを隠せない私と、何かを企むように笑みを深める当の本人。


もっとごねられると思ったんだけど…。



「いつか俺が泣きながら縋り付いた時、アリスはその手を払えないでしょ?」


「…はっ、私に優しさなんてものを期待しているなら今のうちに諦めた方がいいわよ。そんな愉快なことになるなら写真でも撮ってその無様な姿を永久保存してやるわ」


「できないよ、アリスは」


「どっから来る自信なのよ、それ」


「俺は優しさじゃなく弱さに付け入るだけ」


「は?」


「どれだけ泣き喚いても縋り付いてもぉ、実験体を救ってくれる人間なんていなかったんだもんねぇ?」


「……」
「アリスは俺を救ってくれるよ。優しさじゃなく、弱さから。過去の自分みたいで見てられないんだ。――自分を救ってくれる存在は、アリスが最も欲していたものだから」



妙に確信めいたその言葉は、いとも簡単に私を納得させてしまう。


シャロンは私の本質を捉えていた。私自身も気付かないことでさえ分かっている。


……それが、悔しい。



「貴方は何を考えているの」



気付けばそう聞いていた。


分かってる。これがどれ程くだらない質問か。


ここでシャロンがどう答えようと、私はきっと信じられない。



「可愛いなぁ」



それを知ってか知らずか私の問いに対して何も答えないシャロンの手が、犬でも可愛がるように私の頬に触れる。


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