マイナスの矛盾定義
「…逃げたいからだよ。寝てる間は全部忘れられるだろ」


「逃げたいって、何から?」


「ベルを殺した事実から」



今度はさすがに僕も何も言えなくなった。


アランには似合わない、消えそうに掠れた声音だった。


どうしてそれで僕が怒ると思ったんだろう。


ベルから逃げることを僕が許さないとでも思ってるのかな?


馬鹿だな。そういう心配は逃げ切ってからするもんだよ。


アランだって、どれだけ願っても結局逃げられないくせに。


僕は寝ている間も忘れられない。夢の中でベルが笑ってる。四六時中ずっと傍にいる。耳元で僕を呼んでくる。



別に、逃げたいとも思わない。死んでもベルは僕の傍に居てくれるんだから。





「座れ。まだ会議は終わっていない」



えりりんはアランに低くそう言った。


はぁ?お前らが何も言わねぇから話が進まねぇんだろうが、と目の前の長机を蹴りたくなる衝動を抑える。
えりりんとアランの視線が交わり、お互い睨み合うような状況になった。わぁ、怖い怖い。



「……珈琲淹れましょうか」



場を和ませる為に気を遣ったのか、ニーナちゃんが立ち上がる。



「僕のは砂糖一杯入れてね~」



「私はいつものやつを頼む」

「俺はブラックで」

「んー、アタシは砂糖自分で入れる派だから、そのまま持ってきてほしいな」

「同じく俺も自分で入れる派~」



僕に続いてアラン以外全員が珈琲を頼んだ。



その後ニーナちゃんはアランの方を見て、「どうなさいますか」と控えめに聞いた。




訪れたのは暫しの沈黙。


ちょっとちょっと、ニーナちゃんを無視なんかしたらえりりんに怒鳴られちゃうよ~?まぁそれも面白そうだけど…なんて思っていると、



「あいつの珈琲がもっかい飲みてぇ」



アランの口から信じられない言葉が出た。




思わず吹き出しそうになったが、何とか堪える。


あー、アランってば面白いな。いつまで騙されてんだか。
「貴様…!」


勢いよく立ち上がったえりりん。険しい表情をしている。


まぁ、流石にスパイの珈琲が飲みたいなんて言ったらそうな…



「ニーナの珈琲よりあの小娘の珈琲が良いと言っているのか!」



……あ、そっちね。



今にもアランに掴みかかりそうなえりりんとは裏腹に、ニーナちゃんは特に気にした様子もなく。


「申し訳ありません。私はアリスさんではないので…それにアリスさんの珈琲を飲んだ経験がないので、淹れられません」



淡々とそう告げ、1人珈琲を淹れに行く。



それを引き留めるようにぶらりんが言った。


「アラン、ニーナの珈琲はさほど悪くありませんよ」



ニーナちゃんは立ち止まり、ぶらりんの方を見てやんわり頬を染めた。


しかしその視線は交わらず、ぶらりんは答えを求めるかのようにアランの方を見ている。


何なのこの不器用兄妹。見ててむず痒いんだよね。
「…ったく、ニーナの淹れた珈琲が不味いとは言ってねぇだろ。俺が言いたいのは、あいつと会ったのはただの偶然だってことだよ。あんな偶然はおそらく二度と起きねぇ。向こうだって警戒してる。こっちが動かねぇ限りもう捕まえることもできねぇってのは、お前らだって分かってんだろうが」



アランはそう言ってぶらりん達を一瞥した後、溜め息を吐きながら再び椅子に座った。



要するに、アランが言いたいのはこういうことだ。


“さっさと隠していることを全部吐いて次の行動に移させろ”。



僕だって思ってる。だって、失ったんだ。大切な大切な手掛かりを。



彼女は何をした?どうやって逃げた?今どこにいる?



――どうして僕は、こんなにもゾクゾクしてしまうんだろう。


楽しい、楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい。


僕の手掛かり兼遊び道具の分際で、僕の思い通りにならない。なんて生意気なんだろう?


折檻してやりたい。利用するだけ利用してやりたい。ズッタズタにしてやりたい。



僕がそんなことをしたら…あいつはどんな気分になるだろうか。



身体の芯から痺れるような感覚が溢れ出てきて、思わず身体が震えた。
ふと頬杖を付いていたチャロが姿勢を正し、えりりんとぶらりんへ交互に視線を向けた。



「このままグダグダしてるつもりなら言わせてもらうけど、上層部が全員こんな会議を長々と続けていていいわけ?アタシ達だって暇じゃない。とは言え、この件に関してはアタシ達が勝手に動いていい話じゃない。――早く、指示を。」



辛辣でありながらも適確な指摘だった。


陽くんは退屈そうに椅子の背にもたれ掛かり、自分の爪を見ている。



上下がそんなに関係ないのはこの組織の魅力の1つかな。


上の命令に下の人間がただビクビクしながら従ってるの見るのも楽しいだろうけど、そういうのって途中で飽きちゃうし。


やっぱ、下の人間こそ生意気じゃないとね。


そういう意味でもアリスちゃんは最高だったわけだけど――…ちょっと、生意気が過ぎるかなぁ。


面白いんだけど癪に障るっていうか。


この感情がアリスちゃんに向く物なのかアリスちゃんがいないこの状況に向く物なのかは分からないけど、とにかく、憎たらしい。
無意識に自分の手首に爪を食い込ませていたことに気付きその部分を隠していた時、早速珈琲が運ばれてきた。


ニーナちゃんは全員分をトレイに乗せて一気に持ってきたようで、零さないようにプルプル震えながら歩いている。わぁ、面白い。



と。えりりんとぶらりんがほぼ同時に立ち上がり、トレイから自分のカップを取った。


カップが2つなくなったことにより、ニーナちゃんの足取りは安定して。



「あ…ありがとうございます」



「何故?俺は自分の物を取っただけですが」


「早く飲みたかったんだ、気にするな」



何なのこいつら。


どう考えてもニーナちゃんの意欲を無視しない方法で負担を減らそうとしただけだよね。


無駄に気が回ってるのが腹立つっていうか…そんなに気が回るなら僕のイライラにも気付いてほしいなぁ。





机に1つ1つ珈琲が置かれていく。


僕はその珈琲を少しだけ口に含んで、やっぱり苦いなと思った。


砂糖入れてくれてるのは分かるんだけど、もうちょい入れてくれなきゃ飲めないじゃん。元々あんまり飲めないんだし。
後で付け足そうかな、なんて思いながらもそれを顔には出さず、静かにカップを机に置いた。





そして。



「僕さぁ、アリスちゃんがどの組織に属してるか知ってるんだよね」



――何の前触れもせず、最後の手段を切り出した。



全員の視線がこちらを向く。予想通り、ぶらりんの目の色が変わった。



「分かってると思うけど~、タダで教えるつもりはないよ?」



僕としても、アリスちゃんをこのまま放っておくつもりは毛頭ない。


クリミナルズとの繋がりを、そのリーダーである僕の復讐相手との繋がりを、断つつもりはない。




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