マイナスの矛盾定義


俺にはしない要求を。



ブラッドは黙ってこの前の喧嘩でできたであろうエマの頬の傷に触れ、ゆっくり顔を傾けて自身の唇をエマのそれに重ねた。


チュッと音をさせただけですぐ離れていくブラッド。


そんなブラッドに不服そうな顔をしながらも、おかしそうにクスクス笑うエマ。



この光景を見るのが、聞くのが、昼間だけなら良かったのに。



エマは夜も俺達の寝る部屋にやってくる。


ブラッドの布団に潜り込み、俺にはしないあの甘えるような声でブラッドを誘う。


ブラッドは拒まない。言われたことを、言われた通りに、言われた分だけする。


俺はいつも気付かないふりをする。寝ようと思っても寝られないようなその状況で、寝ているふりをする。


寝返りをしたくなっても、布団と服の擦れる音で2人に起きていることがばれてしまいそうで出来ない。


俺からすれば淡々としているように感じられるその行為は、エマにとっては至高のものらしく、俺の耳にはエマの嬌声ばかりが届く。


その声は俺を落ち着かない気持ちにさせ、また、切なくさせた。
そんな日々が続いたある日、エマの18歳の誕生日がやってきた。


その日は雪のあまり降らない地域にあるこの屋敷にも、雪が積もった。


随分寒い日であったにも関わらず、エマはその日も外に出掛けていた。


また喧嘩でもして帰ってくるんだろう。




――その日は、日曜日だった。



いつも通り束縛された。首輪を付けられもした。


ただいつもと違うのは――そこにいるのがいつもの女性達ではなく見るからに乱暴そうな男達であるということだった。


驚きはしたが、自分がこれから何をされるのかはすぐに理解できた。



「男を相手するのは初めてか?」



主人の下品な声がねっとりと耳に纏わりつくような感じがする。


キモチワルイ。


周りにいる男の一人に髪を掴まれ無理矢理顔を上げさせられた。



唐突に、頬に平手打ちを食らった。


間髪を容れずに容赦なく拳で腹を殴られた。


先に弱らせるつもりなのだろう。
次に訪れる衝撃を覚悟して待っていると、部屋の隅にある机の上に腰を掛けてこちらを俯瞰している主人と目が合った。



「…それくらいでいい。つまらんな…暴力には慣れてしまっているようだ」



どうやらお気に召さなかったらしい。


主人の言葉を聞いた周りの男達は、黙って俺の服を脱がしにかかってきた。



不快であることを表情に出してはいけない。


嫌悪感を主人に悟られてはいけない。


反応を示してはいけない。


俺が何か反応すれば、主人は満足するのだ。吐き気がする。


嫌だ。見るな。


殴られようと何をされようと、耐えられないわけではない。


ただ…主人の視線が一番、嫌いだ。
その時だった。


ガシャン、と大きな音がして、窓ガラスの破片が部屋に飛び散る。


続いて二度三度ガラスの飛び散る音がし、誰かがその窓から入ってきた。


いや。“誰か”ではない。本当は分かっていた。期待していた。こんなとんでもないことをする人間は、他にはいないと。



「…お前か。何故…」


「玄関開いてなかったから」



あっけらかんと答えるのは、また傷をいくつもつくってきたエマだった。


エマは主人から視線を移動させ、俺とその周りの男達を見る。



「…何してるの?」


「早く帰ってきていれば玄関も開いている。窓を壊すくらいなら野宿でもすればいいだろう。これだから頭のおかしい娘を持つと大変なんだ」


「何してるの、って聞いてるの」
エマは主人を睨み付けるが、主人もエマを射抜くような鋭い目付きで見下ろした。



「さっさと出て行け。これは遊びだ、大人の遊びなんだよ。子供は関わるな」


「遊び?これが?どう見ても虐待じゃん」


「虐待?何を言っている。奴隷に虐待もクソもあるか」


「…ブラッドにもしているの?」


「お前に責める資格があるとでも?使用人から聞いたぞ、お前がブラッドに何を要求しているか。虐待と言うならお前の方が虐待だろう」


「……っ…」



エマが俯き、ぎゅっと拳を握る様子を月明かりが照らす。


エマはゆっくりと顔を上げ、あの透き通った声ではっきりと言った。



「……お父様、誕生日プレゼントに彼らをください。彼らは私が飼う。もう、手を出さないで」



その視線の先は俺ではないのに、何故かぞくりとした。


割られた窓から入ってくる風がエマのアッシュブラウンの髪を揺らす。


真っ直ぐ主人を見つめるエマを、酷く綺麗だと思った。
「…ふん、所詮お前の命も短い。お前が死ぬまでなら貸してやろう。奴隷なら他にもいるからな」



そう言って冷笑した主人はすっと片手を上げた。


俺の周りにいた男達が俺から拘束具を外し、離れていく。


エマは俺の元へ走ってきて、俺を立ち上がらせた。


状況を飲み込むのに時間が掛かった。


あれだけ俺を苦しめて愉しんでいた主人が、あっさり俺を手放したのだから。


娘にバレたことで萎えたのか…?




ぺこりと無愛想に主人に向かって軽くお辞儀をしたエマは、俺の手を引っ張って主人の部屋から出て行く。



廊下を歩いている最中もエマは何も言わない。




でも、どうしても気になることがあった。


「……命が…短いってどういうこと?」


先程主人が言っていたことだ。



「私ね。生まれつき体が弱くて」


「え?」



前を向いたままあっさり答えるエマは、今どんな表情をしているんだろう。



エマの体が弱い?

考えられない。

だってエマは、喧嘩したらその辺の男にも負けないくらい強い。

いつだって活発な女の子なのに。
「いつまで生きてられるか分かんないんだ。…結婚とか、できるのかなぁ」



エマの手はこんなに強く俺の手を掴んでいるのに、対称的にその後ろ姿は何だかいつもより弱々しかった。


体の芯から欲望が迫り上がってくる。


抱き締めたい、と思った。


この子を守りたいと思った。



「笑えるでしょ、こんな私が普通の女の子みたいな結婚に憧れてるなんて」


「そんなことない…。…可愛い」



気付けばそう口走っていた。


エマは驚いたような顔をしてこっちを振り向いた後、くすくすとコケティッシュな微笑を浮かべる。



「そう、じゃあ、…いつか私のこと貰ってくれる?」


「え…」



自分の頬が紅潮するのが分かった。熱い。耳も、熱い。
「でも俺…大事にできない」



反射的に出てきたのは、そんな情けない言葉で。


言ってからしまったと思ったけれど、もう遅い。


紛れもない本心だった。


俺は言葉を選びながらも、ゆっくりと続けた。



「……人を、大事にしたことがない。俺、本当は妹がいるんだけど…妹と離ればなれになるって時も、何もしなかった」



以前エマと見たドラマに出てくる想い合う夫婦。


主人の命令で買い物に行った時に見た、寄り添い合う穏やかな老夫婦。


俺のイメージする結婚は、夫婦は、温かいものだ。



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