マイナスの矛盾定義
「私のこと大事にしたいと思う?」
好きだと思った。
感情が溢れ出るようだった。
「……うん」
今まで感じたことのないそれに戸惑った。
でも、不思議とそれが心地良かった。
「俺は…君の尻に敷かれたいんだと思う」
思わず発してしまったそんな台詞にエマはぶふっと吹き出して、そのまま暫く腹の皮が捩れるほど笑っていた。
笑顔が太陽みたいに眩しかった。
エマの笑いが収まるまで、ずっとその笑顔を見つめていた。
何とか呼吸を整えた様子のエマは、
「あー、笑った笑った。さて…そろそろ寝ないとね。私が2人を飼うことになったから、今日から2人は私の物だよ。お父様の言うことなんて聞かなくていいからね」
そう言って俺の手を離す。
その温もりが名残惜しいと思う自分の感情を押し殺し、遠のいていくエマに言葉を掛けた。
「エマ、死なないでね」
エマは何も答えず、ただ振り向いて笑った。
その日から、エマが俺達の寝室にやってくることはなくなった。
エマがブラッドに何かを要求することもなくなった。
主人に言われた虐待という言葉を気にしたのかもしれない。
それから2年ほどの月日が流れた頃だった。
屋敷にベージュ色の髪をした若い男がやってきたのは。
上質なスーツを身に纏い、髪を後ろで軽く纏めたその男は、今まで屋敷に来た数々の客とは雰囲気が違っていた。
数十分後、俺とブラッドは客室に呼ばれた。
やってきた若い男は、リバディーのトップ――エリックだった。
売春婦として働いていたニーナを買ったというエリックは、「できることなら兄達ともう一度会いたい」とお願いされた、と俺達に伝えた。
エリックはあきらかに不満そうな表情の主人を退室させ、俺達にリバディーの施設内の写真を見せたり、仲間達の写真を見せたりしてくれた。
ブラッドはあっさりと了承したが、俺はどうしても首を縦に振ることができなかった。
奴隷としての自分から解放されるかもしれないのに。
新しい人生を歩めるかもしれないのに。
――…俺はエマのことがどうしても気掛かりだった。
ブラッドがリバディーの人間に連れられて屋敷を去ったと聞いた時、エマは沢山泣いた。
会いに行きたいとも言ったが、以前より病状が悪くなっていたエマは屋敷から出ることすら許されなかった。
ブラッドは別れも告げずに去ったのだ。
そのことが、ブラッドの無頓着さを更に浮き彫りにしていた。
ブラッドは俺達と連絡を取ることを拒否していたため、リバディーに連絡しても無駄だった。
そのうちエマは病気の進行により寝室から出ることも少なくなった。
「死なないで」という言葉を掛けるのが、俺の日課になっていた。
その頃からエマは以前よりも冷ややかなことを言うようになった。
「私が死のうが死ぬまいが、何も変わらないよ。人間なんてそんなもの。みんな死ぬんだから。この屋敷で働いてる人たちも、たった数十年後に死ぬんだよ。…私が少し早いだけ」
俺はそんなエマに、黙って微笑みかけることしかできなかった。
エマはブラッドがいなくなってから、以前より笑わなくなった。
そんなある日のことだった。
エマが初めて俺に弱音を吐いたのは。
屋敷から出ることを禁じられたエマは、長い間喧嘩をしていなかった。
だからだったのかもしれない。
喧嘩はエマの感情の捌け口だったのかもしれない、と今になって思う。
彼女がどれだけ自身の短命に不安を抱いていたのか、俺には分からない。
やり場のないそれをブラッドとの性行為や他者への暴力で発散していたことに、どうして気付いてやれなかったのだろう。
「本当は生きたいの」
ベッドの上で座ったまま俺のつくったカプチーノを飲んでいたエマは、ぽつりとそう漏らした。
どこか遠くを見ているエマの瞳に、ベッドの隣にある椅子に座る俺は映っていない。
「死にたくないの…お婆ちゃんになるまで、生きたい…」
呟くように言ってエマは目を瞑る。涙が一筋、零れ落ちた。
それを誤魔化すようにぐいっと勢い良くカプチーノを飲み干したエマは、大きな音を立ててカップを横の机に置く。
「……なーんてね。冗談」
俺に笑顔を向けるのは、いつものエマだった。
元気で強かな女の子。
でも、その奥に計り知れない弱さがあることを俺は見逃しはしなかった。
「俺が…エマを満足して死ねるようにするよ」
お前にそんなことができるのか、と冷静な自分が問う。
「楽しかったって思って死ねるようにするよ」
ただ俺に弱音を吐いてくれたことが嬉しくて。
「これ以上ないってくらい、楽しい思い出をつくってあげる」
エマのことを少しでも満たしてやりたくて。
「結婚しよう」
言ったと同時に、後悔した。
幸せにできる保障もない、幸せにできる身分でもない俺が、こんなことを言ったことに。
「俺がブラッドの代わりになるよ」
だからまるで逃げるように他人に成り代わることを予告した。
愚かな予防線を張った。
「奴隷との正式な結婚は無理だろうけど、そんなの俺達の自由だ。俺達が結婚するって言うなら、それがどんな形でも、結婚するってことになると思わない?」
エマはそんな俺のことを戸惑いの表情で見ていた。
「…嫌?」
「そ、そうじゃなくて…」
「俺じゃブラッドの埋め合わせになれないのかな」
「そうじゃなくて…」
「遠慮なんてしなくていいよ。何ならブラッドって呼んでくれても構わないし」
「…どうして…」
「ん?」
「……どうして、そこまでするの?」
胸が苦しくなるし、辛いことの方が多い。
でもその痛みさえ心地良いと思える。
こんな感情をくれたのは自分だと、今目の前にいる彼女は気付いていないだろう。
「君のことが好きだからだよ」
君のおかげで、誰かを好きになることができたんだ。
その日から、俺はブラッドになった。
エマに“似てる”と言われてから意識してブラッドと区別がつくようにしていたのに、今度は似るように努力している。
どうしても真似できないのは、あの冷たい眼と声、口調だった。
それでもエマは俺のことを徐々に“ブラッド”と呼ぶようになり、“ジャック”は消えていった。
毎日エマに小さな贈り物をした。
沢山の言葉を紡いだ。
エマの部屋でもできる遊びを沢山した。
ずっと一緒にいた。
「はい、指輪!付けて?」
ある日俺が部屋を訪れると、エマは用意していたであろう指輪を2つ渡してきた。
この時ほど指輪も用意できない立場にある自分を恨んだことはない。
「こっちがブラッドね!」
渡された指輪を左手の薬指にはめ、にこにこしながら待っているエマの薬指にもう1つの指輪をはめて、そっとその指にキスをした。
満足だった。
彼女は当初ブラッドにしていた要求を俺にするようになった。
好きだと思った。
感情が溢れ出るようだった。
「……うん」
今まで感じたことのないそれに戸惑った。
でも、不思議とそれが心地良かった。
「俺は…君の尻に敷かれたいんだと思う」
思わず発してしまったそんな台詞にエマはぶふっと吹き出して、そのまま暫く腹の皮が捩れるほど笑っていた。
笑顔が太陽みたいに眩しかった。
エマの笑いが収まるまで、ずっとその笑顔を見つめていた。
何とか呼吸を整えた様子のエマは、
「あー、笑った笑った。さて…そろそろ寝ないとね。私が2人を飼うことになったから、今日から2人は私の物だよ。お父様の言うことなんて聞かなくていいからね」
そう言って俺の手を離す。
その温もりが名残惜しいと思う自分の感情を押し殺し、遠のいていくエマに言葉を掛けた。
「エマ、死なないでね」
エマは何も答えず、ただ振り向いて笑った。
その日から、エマが俺達の寝室にやってくることはなくなった。
エマがブラッドに何かを要求することもなくなった。
主人に言われた虐待という言葉を気にしたのかもしれない。
それから2年ほどの月日が流れた頃だった。
屋敷にベージュ色の髪をした若い男がやってきたのは。
上質なスーツを身に纏い、髪を後ろで軽く纏めたその男は、今まで屋敷に来た数々の客とは雰囲気が違っていた。
数十分後、俺とブラッドは客室に呼ばれた。
やってきた若い男は、リバディーのトップ――エリックだった。
売春婦として働いていたニーナを買ったというエリックは、「できることなら兄達ともう一度会いたい」とお願いされた、と俺達に伝えた。
エリックはあきらかに不満そうな表情の主人を退室させ、俺達にリバディーの施設内の写真を見せたり、仲間達の写真を見せたりしてくれた。
ブラッドはあっさりと了承したが、俺はどうしても首を縦に振ることができなかった。
奴隷としての自分から解放されるかもしれないのに。
新しい人生を歩めるかもしれないのに。
――…俺はエマのことがどうしても気掛かりだった。
ブラッドがリバディーの人間に連れられて屋敷を去ったと聞いた時、エマは沢山泣いた。
会いに行きたいとも言ったが、以前より病状が悪くなっていたエマは屋敷から出ることすら許されなかった。
ブラッドは別れも告げずに去ったのだ。
そのことが、ブラッドの無頓着さを更に浮き彫りにしていた。
ブラッドは俺達と連絡を取ることを拒否していたため、リバディーに連絡しても無駄だった。
そのうちエマは病気の進行により寝室から出ることも少なくなった。
「死なないで」という言葉を掛けるのが、俺の日課になっていた。
その頃からエマは以前よりも冷ややかなことを言うようになった。
「私が死のうが死ぬまいが、何も変わらないよ。人間なんてそんなもの。みんな死ぬんだから。この屋敷で働いてる人たちも、たった数十年後に死ぬんだよ。…私が少し早いだけ」
俺はそんなエマに、黙って微笑みかけることしかできなかった。
エマはブラッドがいなくなってから、以前より笑わなくなった。
そんなある日のことだった。
エマが初めて俺に弱音を吐いたのは。
屋敷から出ることを禁じられたエマは、長い間喧嘩をしていなかった。
だからだったのかもしれない。
喧嘩はエマの感情の捌け口だったのかもしれない、と今になって思う。
彼女がどれだけ自身の短命に不安を抱いていたのか、俺には分からない。
やり場のないそれをブラッドとの性行為や他者への暴力で発散していたことに、どうして気付いてやれなかったのだろう。
「本当は生きたいの」
ベッドの上で座ったまま俺のつくったカプチーノを飲んでいたエマは、ぽつりとそう漏らした。
どこか遠くを見ているエマの瞳に、ベッドの隣にある椅子に座る俺は映っていない。
「死にたくないの…お婆ちゃんになるまで、生きたい…」
呟くように言ってエマは目を瞑る。涙が一筋、零れ落ちた。
それを誤魔化すようにぐいっと勢い良くカプチーノを飲み干したエマは、大きな音を立ててカップを横の机に置く。
「……なーんてね。冗談」
俺に笑顔を向けるのは、いつものエマだった。
元気で強かな女の子。
でも、その奥に計り知れない弱さがあることを俺は見逃しはしなかった。
「俺が…エマを満足して死ねるようにするよ」
お前にそんなことができるのか、と冷静な自分が問う。
「楽しかったって思って死ねるようにするよ」
ただ俺に弱音を吐いてくれたことが嬉しくて。
「これ以上ないってくらい、楽しい思い出をつくってあげる」
エマのことを少しでも満たしてやりたくて。
「結婚しよう」
言ったと同時に、後悔した。
幸せにできる保障もない、幸せにできる身分でもない俺が、こんなことを言ったことに。
「俺がブラッドの代わりになるよ」
だからまるで逃げるように他人に成り代わることを予告した。
愚かな予防線を張った。
「奴隷との正式な結婚は無理だろうけど、そんなの俺達の自由だ。俺達が結婚するって言うなら、それがどんな形でも、結婚するってことになると思わない?」
エマはそんな俺のことを戸惑いの表情で見ていた。
「…嫌?」
「そ、そうじゃなくて…」
「俺じゃブラッドの埋め合わせになれないのかな」
「そうじゃなくて…」
「遠慮なんてしなくていいよ。何ならブラッドって呼んでくれても構わないし」
「…どうして…」
「ん?」
「……どうして、そこまでするの?」
胸が苦しくなるし、辛いことの方が多い。
でもその痛みさえ心地良いと思える。
こんな感情をくれたのは自分だと、今目の前にいる彼女は気付いていないだろう。
「君のことが好きだからだよ」
君のおかげで、誰かを好きになることができたんだ。
その日から、俺はブラッドになった。
エマに“似てる”と言われてから意識してブラッドと区別がつくようにしていたのに、今度は似るように努力している。
どうしても真似できないのは、あの冷たい眼と声、口調だった。
それでもエマは俺のことを徐々に“ブラッド”と呼ぶようになり、“ジャック”は消えていった。
毎日エマに小さな贈り物をした。
沢山の言葉を紡いだ。
エマの部屋でもできる遊びを沢山した。
ずっと一緒にいた。
「はい、指輪!付けて?」
ある日俺が部屋を訪れると、エマは用意していたであろう指輪を2つ渡してきた。
この時ほど指輪も用意できない立場にある自分を恨んだことはない。
「こっちがブラッドね!」
渡された指輪を左手の薬指にはめ、にこにこしながら待っているエマの薬指にもう1つの指輪をはめて、そっとその指にキスをした。
満足だった。
彼女は当初ブラッドにしていた要求を俺にするようになった。