マイナスの矛盾定義
――
――――



非常扉をゆっくりと開け、なるべく音を立てないように階段を下りていく。


鉄パイプをしっかり握り、息を潜めて。


この階段を下りて、どのルートで逃げ切ろう…多分リバディーの連中、暫くの間はこの研究所内を探すだろうし、時間は十分あるはずだ。



ここにいても嫌な気分になるだけだし、早く逃げたい。


気を抜くと当時の記憶を思い出してしまいそうで怖い。


あの、残虐な実験を―――。


「………ッ」


ぞくりと全身に悪寒が走り、目眩がした。


駄目だ、気を確かに―――と思っても、既に遅く。


体がぐらりと揺れ、足が階段を踏み外す。



体が踊り場に打ち付けられた。


なのに、痛いと感じるよりも全身の震えがなかなか止まってくれない。
早くここから離れなければ…怖い、怖い、怖い、コワイ。


ここにいると、実験の記憶をより鮮明に思い出してしまう。



「……はぁ…」



深く深呼吸して、まだ少し震える手で鉄パイプを握りしめる。


何とか起きあがろうとして、ふと異変に気が付いた。


右腕が痛い。まさか、落ちた時に捻挫した…?


まだ左腕が残ってるから、鉄パイプは持てるけど…本当に早くここを離れないと自滅する。



舌打ちしたくなるのを抑えつつ、階段を下りていく――と。


「………、」


息を呑む。鼓動が早くなる。状況を把握するのに精一杯で、身体が動かない。


ブラックブルーの髪に、青い眼、白い肌。


この世の者とは思えない雰囲気を放つその男が、私の前に立っていた。




「ブ…ラッドさん…」



自分から漏れ出る声が掠れているのが分かる。


ブラッドさんは何も言わない。
私は周りに他の人間がいないことを確認し、鉄パイプを強く握る。


今いるのはブラッドさん1人だけ。


アランならまだしも、ブラッドさんなら倒せるかもしれない。


今のところ手には何も持ってないみたいだし…強行突破ならきっとできる。



「……退いて頂戴」



何を言っているんだろう、私は。さっさと殴って走ればいいのに。


早くしないと、大勢の人がここに来るかもしれないのに。



「退かないと、痛い目見るわよ」



私はゆっくりと鉄パイプを振り上げる。


なのに、ブラッドさんは動かない。



数秒経った後、私は奥歯を噛み締めて、勢いよくそれを振り下ろした。


確かな手応えがあった。鈍い音がして、私は目を開ける。



「……、」



ブラッドさんが鉄パイプを腕で受け止めている。
あの音…痛いくらいじゃ済まないはずなのに。



「―――…頭を殴ろうとしなかった」


「…は?」


「君が殴ろうとしたのは俺の脇腹です。一番殴りやすいはずの頭を殴ろうとはしなかった」


「……何が言いたいの?」


「君には俺に対する殺意がない」


「…そうね、わざわざ殺してたら時間が掛かるもの」


「君は人を殺したことがない」


「……」


「君はただの一般人だったはずだ。巻き込まれた人間だ。そうでしょう?――春」



血の気が引いていくような気がした。



「…ッその名前で呼ばないで!私は“春”じゃないし、“春”に戻るつもりもないわ」



もう1度鉄パイプを振り上げようとする…が、ブラッドさんの手がそれをしっかりと掴んでいて。



「君が望むならどうとでも呼びますよ」



引き抜こうとするけれど、ブラッドさんの力が強いうえ利き腕が使えない状態じゃとても敵わない。
「言ってくれたましたよね。1人の人間の過去と未来を同じにするのは、1つの線上にある別々の点を同じにしているようなものだと」



前にいるのはたった1人の男なのに、



「だから君が望むのなら、俺は君と春を同じにはしたくない。でも俺は、君の人生の線上における全ての点が好きなんです。春も好きだし、今の君も好きなんです。どうしても嫌なら…君が俺に春を忘れさせてください。俺の傍にずっといて、俺の中を君で埋め尽くせばいい」



――その眼に捕らえられて逃げられなくなった気がした。



滅茶苦茶な理論だ。


この男は私がスパイだったと分かっていて、まだ好きだと言う。


心臓が締め付けられるように感じた。



何やってるの、私。


こんなところでグズグズしてる暇はない。


逃げなければいけない。



「…見逃して…くれない?」


「は?」


「…そんなに好きなら、見逃して」


「……」
「私にはやることがあるの。私のことを少しでも考えてくれるなら…見逃して」



震える声でそう言った私に、ブラッドさんはふっと笑った。


そして、次の瞬間その顔から笑みを消す。



「――…やっと見つけたのに、誰が逃がすか」



ブラッドさんが放ったとは思えないくらい低い声だった。


耳の奥で、バズ先生の車で聴いた音楽が警鐘のように近付いてくる気がした。




次の瞬間、体の左側を、後ろから唐突に現れた足に勢いよく蹴られ――気付けば非常階段の手すりに体が打ち付けられていた。



「……ッ…グッ…」



まずい。肋骨が何本かやられたかもしれない。


体を動かすことが苦痛で、目だけで後ろにいる人間を確認する。


そこには、キャラメルブロンドの髪をした相変わらず異様な雰囲気を漂わせる男が立っていて。



「アハッ、痛かった?」



そう言って愉しそうに嗜虐的なヴァイオレットの瞳を細める彼は、私もよく知っている人物。
「ラスティ…乱暴に扱うなと言ったでしょう」


「ぶらりんは甘すぎるって~。いつもならぶらりんの方がもっと酷いことするくせに。公私混同はやめてくれるー?僕はそんな手ぬるく扱うつもりないよ?どうせ死なないんでしょ?」



……こいつ、私が不老不死だってことを分かってる?


国家機密だってのに…ブラッドさん、結局教えたのね。



「現に1回逃げられちゃったわけだし、動けないようにしとかないとねー」



すっとラスティ君の手が近付いてくる気配を感じ、覚えず隠し持っていた短刀でその手を切りつけてしまった。


痛みで力が入らず、中途半端な切り方になったけれど――隙をつくるのには十分だ。


痛みには慣れている。極力痛い部分から意識を逸らせばいい。




動け、足――痛くても苦しくても、あの研究に戻るよりはマシだ。


無理矢理立ち上がり、転がり落ちてでもこの場から逃れようとする私には、捕まるつもりなんて少しもない。
しかし、急に足に力が入らなくなった。


パァンッという乾いた音の後に足首に熱い痛みを感じて、その場に崩れ落ちる。


倒れた拍子に強烈な痛みが走り、「ぁ…ッ」だか「がッ…」だかよく分からない呻き声が口から出ていった。


息が荒くなる。やけに汗が出てくる。



「あっれ?アランもこっち来たんだ~」



ラスティ君のそんな言葉が、私を絶望へと引き摺り込む。



「動くなよ。一度殺されてから運ばれるか、大人しくしているかの二択だ」



顔を上げられないけれど、それが私に向かっての命令だということは分かる。


優秀組の3人が、今ここに揃った。
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