マイナスの矛盾定義
言われなくても、もう動けない。
逃げられない。
後悔ばかりが次々と頭に浮かび、更に浮かんだのは謝罪だった。
――…シャロン…ごめんなさい……。
――後日、霊園。
冷たい風が吹き付け、木々の葉がザワザワと揺れる。
俺は今――エマの墓場の前に立っている。
数メートルほど離れた場所から、2人の男女がこちらへ歩いてきた。
並ぶと似ている箇所がよく分かる。
ブラックブルーの髪と青色の瞳は、俺の物と同じだ。
「よく来たね。…ブラッド、ニーナ」
ブラッドはニーナを隠すようにその前に立ち、警戒の色を孕んだ眼で俺を見てくる。
酷いなぁ、何もするつもりはないのに。
「……お久しぶりです」
小さな声が風に乗せられたようにこちらまで届き、それがろくに聞いたことのなかった妹の声であると、何故かすぐに分かった。
「ずっとお会いしたいと思っていました」
ブラッドの後ろから顔を出したニーナは、ブラッドからの制止を振り切りこちらへと近付いてくる。
そういえばこの子は――俺達が屋敷にいた頃、俺達に会いたいと言ってくれたのだった。
こうして俺達が改めて会うのは初めてだ。
一体、何年ぶりだろうか。
あの時連れて行かれた小さな背中を思い出す。
この子は、俺の妹は、あれからどれだけの苦労を味わったのだろう。
「…久しぶり」
いざとなると、言うべきことが何も思い浮かばなかった。
非合法的な社会の中でずっと汚い仕事ばかりしてきた自分と、リバディーに属するニーナとブラッド。
俺達の間には、瞭然たる分厚い壁がある。
ブラッドは“Emma”と刻まれた墓を見下ろし、墓前に花を捧げた。
続いてニーナも花を捧げて合掌する。
俺が灯したキャンドルの火が揺れた。
嗚呼――これで、目的が果たせた。
見えているかい?
遅くなってごめんね。
もっと早く会いたかったよね。
もっと早く、ブラッドをここへ連れてこられたら良かったのに。
「彼女は、本当に亡くなったんですね」
落ち着いた声音でそう言うブラッドは、未だ墓を見下ろしていた。
「あぁ…。生前は、ずっとお前に会いたがってた」
「……」
「勘違いするな、責めてるわけじゃない。お前があの屋敷を出たおかげで、俺はお前の身代わりができた」
「…違うと思います」
「え?」
「逆ですよ。彼女は兄さんを俺の身代わりにしていたんじゃない。俺のことを兄さんだと勘違いしていた」
淡々と言うブラッドの視線は、俺の方に向けられている。
……俺を慰めてるのか?
いや、ブラッドが俺にそんな気を遣うとは思えない。
なら本当に……違う、そんなはずはない。
エマは確かにブラッドが好きで、だから俺が身代わりになることを望んで…。
「彼女に飼われることになった時、彼女に謝られました。貴方が好きだからしていた行為が、結果的に虐待になってしまっていたと。“あの時花をくれた貴方が好き”だと」
――…あぁ、そうだ。
あの屋敷の主人に飼われ始めて間もない頃、彼女にカキツバタをあげた。
主人の使いで買い物に行った時、花屋の婦人がおまけだと言って俺にくれた外国の綺麗な花。
俺ではすぐに枯らしてしまうような気がして、屋敷にいたその花が似合う女の子に渡した。
その子はどんな反応をしたんだったか。
泣きそうな表情をして笑っていた気がする。
「俺は花なんてあげた覚えがありません。そう伝えると、彼女はまた俺に謝りました」
涙が溢れた。後悔の涙だった。
あの時俺が、代わりになるなんて言わなければ。
エマはどこか腰の引けた俺にずっと合わせてくれていたんだ。
自信がなかった。
身代わりになると言ったのは、本当にエマの為だったのだろうか。
身代わりになることで、自分という存在を消すことで、自身の罪悪までもを消したかったんじゃないのか。
許しを求めていたんじゃないのか。
俺じゃないので許してくださいと。
こんな俺が人を好きになることを、人と接することを許してくださいと。
今なら彼女を、俺として…ジャックとして、幸せにすると言えるのに。
ニーナが淡い桃色のハンカチで優しく俺の涙を拭った。
その優しさに、また涙が出た。
ごめん。ごめん。ごめん。
俺は何もできなかった。
あんなに小さな女の子に、妹に、弟にも、何もできなかった。
もう何もなかった頃には戻れない。
俺達は違う道を歩みすぎた。
普通の兄妹のような関係にはなれない。
ただ、それでも。
「君達と……こうして再会できたことを、幸福に思う」
俺は2人を抱き締め、らしくもない言葉を吐いた。
ニーナもブラッドも何も言わない。
が、俺を拒むことはなかった。
最後は更に力強く――兄として2人を抱き締め、そっと離れた。
こうしてブラッドをその気にさせられたのも、再会ができたのも、あの子のおかげだ。
「…あの子はどうしてる」
ポケットに手を突っ込んでそう問い掛けると、ブラッドはその冷たい瞳には似合わない微笑を浮かべ、
「そうですね、少しばかり痛い目にあわせたくもありますが…それも最初のうちだけですよ。そのうち、自分の意思で俺から離れられなくなるように仕向けるつもりですから」
愛おしそうにそう言った。
――歪んでいる。
ブラッドのこんな表情を、俺は初めて見た。
シャロン君のそれとはまた別の、喩えるなら穏やかでどす黒い色をした執着。
俺はアリスに少しの哀れみを感じつつ、苦笑を返した。
「アリスも大変だな。騙した俺が言うのもなんだが」
「兄さんには感謝していますよ、アリスを取り戻せたので。兄さんのこと、約束通り今日は見逃します。いつか必ず捕まえますが」
機嫌が良いことを隠し切れていない。
あの子のことになると本当にらしくないな。
いつもなら約束なんか守らないのに。
念のため武器を所持しているが、使う必要はなさそうだ。
「有り難いね。いつかお前が俺を捕まえると思うと楽しみだ」
揶揄して笑い、2人に背を向ける。
別れを惜しむかのように向かい風が吹くが、気にせず歩を進めた。
「あの!」
後ろからニーナの声がする。
「貴方はこれから…どうするおつもりですか」
俺は振り返らずに答える。
「どうするも何も、まだ捕まる気はないよ。君達と会うのはこれが最後かもしれないね」
「そんな…」
どうやら彼女は、もう俺とは兄妹として会えないことを悲しんでくれているらしかった。
「先のことは分からないさ。俺はリバディーにとって有益な情報をまだ沢山持ってる。交渉相手としてなら、またいつかきっと会える」
…俺だってそう望んでる。
「 Auf Wiedersehen! 」
ドイツ語で別れの挨拶をし、最後まで振り返らずに歩いた。
霊園を去り、ポケットから携帯を取り出す。