マイナスの矛盾定義
「…貴方に見下ろされてるだけで最悪の気分だわ」


「そりゃ良かったな。俺としては良い眺めだ」


「趣味が悪いのね。いえ、性根が腐ってるのかしら」


「調子に乗るのも大概にしろよ。ブラッドさえいなけりゃお前くらいすぐ屈服させてる。…あらゆる手を使ってな」



分かってる。


幸か不幸か、“春”はブラッドさんの初恋の相手だ。


私がこれだけ生温い扱いを受けているのは、ブラッドさんがいるから。


逆に言えば、ブラッドさんがいる限り私がさほど酷い扱いを受けることはない。


小賢しいラスティ君ならブラッドさんの目を盗んで私に害を与えることはできるだろうけど、それもブラッドさんにばれない範囲でやらなければならないのだから、限界がある。



そう思って鼻で笑ってやればアランは私に近付いてきて、


「どうも自分の状況を理解してねぇみてぇだな、お前。自覚させてやってもいいんだぞ?女をめちゃくちゃにする方法はいくらでも知ってるからな」


と――ぞくりとするほど低い声で、脅すように囁いた。



私が黙ると、今度はアランが鼻で笑って私から離れていく。


ラスティ君が楽しそうにこちらを観ているのが分かる。



脅えてはいけない、屈してはいけない…たとえ恐怖を感じても、それを悟られてはいけない。



唇を噛む。


じんじんと、また手首が痛んだ。
―――
―――――




優しく頭を撫でられる感触に、目が覚めた。


お風呂上がりらしき良い匂いがする。


水分不足だろうか、身体になかなか力が入らない。



「アリス」


ブラッドさんの声が私の名前を呼んだ。



「シャワーを浴びましょう」



ふと、手首の重みがなくなっていることに気付く。


どうやらブラッドさんが手枷を外してくれたらしい。


その代わり、ブラッドさんの手が私の手をしっかり握っていた。



「立てますか?立てないようなら、運びますが」



大きくて、何だかゴツゴツしていて、ひんやりした手。


不思議と振り払いたいとは思わない。


無論、振り払おうと思ってもできないんだろうけれど。
「ありがたいことね。敵である私をわざわざ運ぼうとしてくれるなんて」



そう皮肉ればブラッドさんはクスリと笑って、まだ許可もしていないのに私を抱え上げた。


こうされるのは二度目――ジャズバンドの団体の連中に撃たれた私を、ブラッドさんが運んでくれた時以来だ。



ガラス張りのこの部屋から見る人工的な夜の景色。


街のネオンがとても綺麗で、光の絨毯のように見える。


敵に捕まっているこんな時だからこそ外の世界を妙に美しく感じた。



今なら、ブラッドさん1人をどうにかするだけでここから逃げられるかもしれない。


でも、エレベーターに乗ったとしても止められたり1階にいるであろう夜間警備員に見つかったりしたら終わり。


そもそも私は階から階へ移動する際に使用するカードを今持っていない。


もう一度屋上から飛び降りるとしても、ジャックから貰った薬の力がない今、再生時間はそう短くない。


意識を取り戻す前に私の死体を回収されたら意味がない。


第一、武器は持っていない、怪我でまともな力も発揮できない今、どうやってブラッドさんをどうにかするのかというところから始まる。


時期尚早だ。


今夜は逃げ出すことを考えず、大人しく従っておこう。


そう思って身体を預けると、ブラッドさんは嬉しそうに笑った。
―――
―――――



9階にあるシャワールームは1人用。そう広くはない。


外に脱衣所があって、ブラッドさんはそこで私がシャワーを浴び終わるのを待っていた。



新品の下着と私には合いそうにないサイズのTシャツを着替えにと渡された。


バスタオルで体を拭き、Tシャツを着てから壁の方を向いているブラッドさんに声を掛ける。



「終わったわよ」



自分の足でしっかり立って、運んでもらわなくても結構だということをアピールするけれど、



「…可愛い」



何故かちょっと恥ずかしそうに私から目を逸らしたブラッドさんは一体いつの間に用意していたのか、ヘアゴムを渡してきた。



「こういう時は髪を括るんでしょう?」



……よく覚えてるわね、そんなの。



大人しくヘアゴムを受け取り、髪を1つに纏める。
濡れた手をタオルでもう一度拭くと、ブラッドさんの手が私の手を握ってきた。



「最近少し寒くなってきましたし、風邪を引いてしまう前に部屋へ行きましょう」


「…何だか、お婆ちゃんみたいね」


「は?」


「……いいえ」



思ったことをぼそっと口に出してしまった。


聞こえていないことを祈ろう。




ブラッドさんに引かれて仕事部屋までの道を歩く。


常夜灯の光だけが私たちを照らしていた。



まだ少し足の傷が痛むけれど、歩けないほどではない。


アランに足を撃たれてからもうそれだけの時が経ったのか、あるいは――…私の傷の治りがより早くなってきているのか。


完全体になるまでの時間は、あとどれくらい残っているんだろう。



こんなところで捕まってる場合じゃないのに…。
仕事部屋に戻ると、ブラッドさんの手が私から離れていった。



「傷の手当てをしますから、俺の椅子に座ってください」



そう促し、引き出しから救急セットを出してくるブラッドさん。


本当に何なのかしらこの人。


私、一応スパイだったんだけど…。



椅子に座ると、ブラッドさんは屈んで私の足に触れた。



「少し痩せましたね」



包帯を巻きながら、悲しそうな顔をする。



「君に何か妙な物を食べさせるつもりなら、もっと早くにしています。ちゃんと食事を取ってください」



それから私の手首に視線を移し、更に表情を曇らせた。



「暴れて自分を傷付けないでください。…良い子にしていたら、拘束具を外してあげます」



小さな声音で発せられる、まるで私を気遣うような言葉。



「…わ、分かったわよ」



確かに、今まで食べさせられた物で身体に妙な効果があったことはない。


抵抗し続けて体力を失うよりは、食べた方がマシかもしれない。



…分かったからそんな顔しないで。
「本当に?」


「ええ…」


「なら、今からでも水分を取った方がいい。後で冷たい水を持ってきます」



私の返事に満足したらしいブラッドさんは、足に包帯を巻き終えると、傷付いた手首にも絆創膏を貼ってくれた。



その後また手枷をつけられ、部屋に1人残された。



暫くしてブラッドさんが毛布とコップに入った氷水を持ってきたから、文句を言わずそれを受け取った。


今まで何も無しで寝ていたから、毛布はかなり有り難い。


冷たい水も、ラスティ君やアランのいない今、ブラッドさんが用意した物だと思うと飲めた。


この人は安全だと思い込んでしまっている自分がいる。



ありがとう、と言い掛けて止めた。


お礼を言うような状況じゃない。


私は捕まっているんだ。




「貴方って甘いのね」



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