マイナスの矛盾定義
スパイだった人間を捕まえておいてこの扱い…これでもリバディーの司令官なのかしら。
不意にブラッドさんの手が私の背中に回り、気付けば抱き締められていた。



「君は男を駄目にする」



首筋にブラッドさんの髪が当たってくすぐったい。



「優しくしてはいけないと思うのに、甘やかしたくなってしまうんです…」



ブラッドさんの体温が伝わってくる。




「君のせいだ、」



少し色っぽい切なげな声音が私の耳に届く。



「君のせいで俺はおかしくなる」



ブラッドさんの指が私の首筋を伝って胸元へ下りていく。



「君のせいで心臓が苦しい。…今もずっと」



その指は、左胸の傷跡の部分に達すると止まった。


同時にブラッドさんの顔がそこまで下りていき、傷跡に舌を這わされる。



「ちょ…っと、何してんのよ」



押し返そうとするけれど、ブラッドさんは構わず傷跡を甘噛みしてきた。



「愛おしいんです。俺の為に負った傷だから」
「…離してくれないかしら」


「まだ、ダメです」


「今日はいつも以上にしつこいのね」


「アランは無遠慮に君に近付く」


「……は?」


「必要以上に距離が近い。俺がいない間何かするかもしれない。だから俺は仕事中も気が気じゃない」


「……」



馬鹿らしいことを真剣な表情で言ってくるから、驚きと呆れでぽかんとしてしまった。



「君が悪いんですよ?君がそんなに可愛いから。もっと自覚してください」


「…ご…ごめんなさい…?」


「その程度で許すと思いますか?俺の目を見てもう1度言ってください。“他の男を誘惑してごめんなさい。もうしません。”と」


「ゆ、誘惑なんかしてないわよ…!」


「してるんですよ。ああもう、いっそ俺の部屋に閉じ込めたい」


「はぁあ?」



一体この人の目に私はどう映っているのか。


私とブラッドさんの間に分厚いフィルターがあるような気がしてならない。
ブラッドさんの部屋へ行くというのもアランやラスティ君の手が届かない分害が無くて良いかもしれないけど…そうなると情報が入ってこなくなる。


普段3人の会話を聞いて最近あった事柄を把握しているから、それがなくなるのは困る。



「アランなら大丈夫よ。あいつ、分かりにくいけど貴方には感謝してると思うの。貴方からの言いつけなら余程のことがない限り破らないわ。信じてあげたらどうなの?」


「信じる…?」


「そう。…貴方って結構周りが見えてないわよね。自分への悪意も好意も見逃していそう」


「君しか見えません」


「……あぁ…そう…。でも、ちょっとは視野を広げて仲間のことを気に掛けてみるべきじゃない?司令官なら尚更」



何で私が敵組織の人間にアドバイスするような状況になっているのか疑問だけれど、ブラッドさんは私を見て言った。



「…君が言うなら、努力します」



この人の世界は私中心でまわってるわけ…?



「分かったら、早く寝て。貴方にも仕事があるんでしょう」


「分かりました」


「………」


「………」
「………あの、離れて」


「分かりました」


「………」


「………」


「離れろって言ってるでしょうが…!」



言ってることとやってることが違うのよ、と押し返せば、ブラッドさんは渋々といった感じで私の体を放した。


私に毛布を掛けて立ち上がり、仕事部屋の電気を消す。


街のネオンの光だけがブラッドさんを照らしている。





「おやすみなさい。それから、」



ドアノブに手をかけ、最後に私の方を振り返ったブラッドさんは、



「“お婆ちゃん”じゃ、ないです。」



拗ねたような表情でぽつりとそう言って仕事部屋を出て行った。
食事をきちんと取るようになってから数日。


ブラッドさんは約束通り拘束具を外してくれた。


ただし、自由に動くことを許可されたのはこの仕事部屋の中でだけ。


しかもブラッドさんが室内にいない間はいつも通り手枷をつけられる。




結果的に大した行動の自由を得てはいないけれど、無いよりはマシ。


そう思ってアランがよく使うソファベッドに腰を掛けてくつろいでいると、ラスティ君が入ってきた。


その手には2階で買ってきたであろうお菓子の箱。



「ただいま~。あー疲れた。…って、あれ?なぁんでアリスちゃんがそこに座ってるの?」



普段繋がれている場所にいない私を見て、ラスティ君は怪訝そうに聞いてくる。


いつもの如く顔面に笑顔を貼り付けてはいるものの、その眼は笑っていない。



「俺が許可しました」



書類をばさりとデスクにやり、眼鏡を外しながらブラッドさんが答えた。
ラスティ君は私とブラッドさんを交互に見て、


「あー、なるほどね。だから最近よく食べてたわけだ」


見透かしたようにそう言い私の方へ歩いてきた。



妙な威圧感から逃れたくなったけれど、逃げたら負けのような気がしたので澄ましておく。



「今日はねー、ホワイトチョコのキャラメル買ってきたんだよ。アリスちゃんも食べる?」



無遠慮に私の隣に座り箱を開けて見せてくるラスティ君は、どこか不気味さを感じさせる。



「…いらないわ」



短く拒否すると、ラスティ君の顔から笑みがスッと消え、次の瞬間楽しげに唇を歪ませた。



「――お前に拒否する権利あると思ってんの?ねぇ、ちょっとは自分の立場考えなよ、馬鹿じゃないんだからさぁ。お前と僕、今どっちが上か理解できてる?上の人間が可哀想なアリスちゃんにわざわざ食べ物を恵んであげようとしてるんだからちゃんと…お、ね、だ、り、しないとねぇ?ほら、さっさと口開けろよクソア……いって!」



凄まじい勢いで飛んできたボールペンがラスティ君の頭にヒットし、床に落ちる。



「離れてください」



ボールペンが飛んできた方向に視線を向けると、ブラッドさんがいつもより冷ややかな目でこちらを見ていた。
「その子は俺が与えた物しか食べません」



ラスティ君はチッと大きく舌打ちをし、箱を持って私から距離を置く。


面倒臭い奴が去ったことに安堵していると、今度は私に指示が出された。



「アリス、こっちおいで」



……別の意味で面倒臭い人が…。


溜め息を吐いて腰を上げ、ブラッドさんのデスクの方へ歩く。


少し疲れているらしいブラッドさんは、座ったまま私の腰に手を回し、もたれ掛かってきた。



「…疲れたの?」



薄着だからか、私のお腹の辺りに頭を当てているブラッドさんの髪の感触が伝わってきて少しくすぐったい。



「はい、少し休ませてください」


「なら私に構ってないで1人で休んでなさいよ」


「いえ、触れ合うことでオキシトシンというストレス軽減作用のあるホルモンが分泌されるそうなので…」


「尤もらしいこと言って自分のしたいことしてんじゃないわよ…」
こういう仕事中は相変わらず眼鏡を掛けているらしいブラッドさんの黒縁のそれを外したい衝動に駆られて、でも、やめておいた。


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