マイナスの矛盾定義
当たり前のように自らブラッドさんに触れようとしてしまった自分を恥じた。
シャロンは今どうしているのだろう。
キャサリンは、バズ先生は。クリミナルズの仲間は。
目の前にいるこの人がいくら私に優しくしてくれようと、敵であることに変わりはない。
いつ実験動物としてあの研究に引き渡されるか分かったもんじゃない。
この場所は安全じゃない。
慣れてはいけない。
手懐けられてはいけない。
自分の立場を忘れるな。
私は手首に貼られた絆創膏の上から指で力を加え、これはこの人達に与えられた痛みなのだと再確認した。
そんな私たちの様子をつまらなそうに瞥見したラスティ君は、勢い良く椅子に腰を掛け、壁掛けテレビの電源を入れる。
私も見たことのあるこの国では有名なニュース番組が放送されていた。
キャスターと御意見番らしき人物が何かを話している。
『日本では士巳豆内閣が発足し、この国とのさらなる友好関係の構築が期待されます』
『士巳豆現首相は以前から同盟強化を支持していたようですね』
『個人的にもこの国が好きらしいですよ。文化や気候がお気に入りだとか』
心臓がどくん、と大きく音を立てた。
それが一番近くにいるブラッドさんに気付かれないかとひやひやして、余計に焦ってしまう。
士巳豆――…マーメイドプランの資金提供者。
ここの連中に捕まってから、外の情報は殆ど入ってきていなかったけれど…いつの間にこんなことに。
「あーあ、やだやだ。まーた日本での仕事増えるじゃん。政府も僕らを利用しないでほしいよね~」
うんざりしたように頬杖をついてキャラメルを口に放り込むラスティ君は、おそらく士巳豆がマーメイドプランに関わっていることを知らないのだろう。
資金提供者が日本の首相…この国との同盟を強化…不老不死の体を共に研究している、この国と。
あの研究がどんどん大きくなっている。
ジャックは私を裏切った。
私は今、国と密接な関係のある組織に捕まっている。
私には、味方がいない――…。
―――『今日からおれ達は協力者だ、アリス。』
不意に、小麦色の肌をした、狐顔の男の顔が脳裏を過ぎった。
絶望するのはまだ早い。
私にはいる。私をあの研究所から脱出させることに成功した、強力な味方が。
何としてでもここから逃げ出してみせる。
あんな狂った研究の実験材料になんて、絶対になってやらない。
その時、ガチャリと仕事部屋のドアが開いた。
そこに視線を向けると、眠たそうなアランが部屋に入ってきて。
拘束具を外されている私を見てやはり怪訝そうな顔をしたけれど、ブラッドさんを見て納得したように溜め息を吐いた。
そして、私に向かって言葉を放つ。
「見張り役を連れてきた。お前もよく知ってるやつだ」
アランの後ろから現れたのは――ショートカットの黒髪に、青い瞳の女の子。
白いシャツの上に真っ黒なニットカーディガンを着ていて、赤いネクタイと黒スキニーが落ち着いた雰囲気を更に醸し出している。
「本日よりアリスさん専属の見張りを務めさせていただきます、ニーナです」
無表情のまま淡々と発せられた言葉。
開いた口が塞がらない。
受け付けもあるでしょうに、どうしてニーナちゃんなのか。
正直、スパイであったことが発覚している今、会いたくなかった人物だ。
この子は私がスパイだったと知ってどう思っただろう。
考える必要のないことを考えてしまい、私はニーナちゃんから目を逸らした。
すると不意にブラッドさんと目が合って、ブラッドさんは私の疑問を察知したように言う。
「受け付けには他を回しています。君を見張らせるうえで、俺が許せるのはニーナだけなので」
どうやら、見張りをニーナちゃんにしたのはブラッドさんみたいだ。
ここまできてようやく確信できたけれど、私の責任者はおそらくブラッドさんなのだろう。
「さて、仕事だ仕事」
アランが伸びをして自分の椅子に腰を掛けると、ブラッドさんも切り替えるように私から手を離して机に向かう。
もういいのかと思って離れようとすると、ブラッドさんが私の服の裾を引っ張ってきた。
「励ましてください」
「は…?…が、頑張れ…?」
「はい。頑張ります」
小さく嬉しそうに笑ったブラッドさんは、そのまま鼻歌でも歌い出しそうな調子で書類に目を向けている。
意味が分からない…。あんなのでいいのかしら。
ずっといても仕事の邪魔だろうし、私はソファベッドに戻って腰を下ろした。
こちらへ近付いてきて私の隣で止まったニーナちゃんは、黙って姿勢良く立っている。
暫しの沈黙。
書類を捲る音、紙に何かを書き込む音、キーボードで文字を打つ音。
誰も何も喋らない。ニーナちゃんを含めて。
「あの…座ってていいわよ」
「お構いなく。話し掛けないでください」
ずっと立っていても足が疲れるだろうと思ってそう声を掛けたけれど、ニーナちゃんはバッサリそう言い放った。
まぁ、そりゃそうよね…私は敵なのだから、以前のように緊張感のない会話はできない。
「黙々と仕事するのもつまんないし、何か話そうよ。今日は女の子が2人もいるし、いつもと違う感じじゃん?」
しかし、そう考える私とは対蹠的に、まるで緊張感のない様子で提案するラスティ君。
「この状況でわざわざ話すことなんかねぇだろ」
「話すことがなくても話すの!うーん、面白そうな話題といえば……自分のちょっとした弱点のこととかは?」
アランの意見を無視して本当に軽い話を振るラスティ君は、ここに敵組織の女がいるってことをちゃんと理解しているのかしていないのか。
「寒さには弱いです」
「あー、ぶらりん寒がりだもんね。そのうえ冷え性だし」
どうやらこの話はもう始まっているようで、キーボードに文字を打つ手を止めずにブラッドさんが答える。
「ニーナちゃんはー?」
「えーっと…ホラー系の話が少し苦手かもしれません。エリックと一緒にテレビを観ている時にそういう番組をやっていたら消してしまいます…」
「へー意外ー。ニーナちゃんってそういうの真顔で見るタイプかと思ってた。今度僕と一緒に観る~?」
話を聞いていないのか、とつっこみたくなるけれど黙っておいた。
「ラスティ、エリックに殺されるぞ」
「んー、それは困るなぁ。あ、でもえりりんには一度本気で怒られてみたいかも」
「変わった趣味だな。今更か」
「もー。アランに言われたくないし」
「あ?」
「何でもなーい。はい、次アランの番だよ。弱点弱点」
「弱点っつーか…捨て猫とか捨て犬とか、そういうのには弱いな。つい拾っちまう」
「あー、そういや前に仕事先からでっかい犬拾ってきてたよね。今どうしてるの?」
「訓練を受けさせた。6階の奴らの捜査活動に協力してる」
へぇ…これは私にとっては少し意外だ。
シャロンは今どうしているのだろう。
キャサリンは、バズ先生は。クリミナルズの仲間は。
目の前にいるこの人がいくら私に優しくしてくれようと、敵であることに変わりはない。
いつ実験動物としてあの研究に引き渡されるか分かったもんじゃない。
この場所は安全じゃない。
慣れてはいけない。
手懐けられてはいけない。
自分の立場を忘れるな。
私は手首に貼られた絆創膏の上から指で力を加え、これはこの人達に与えられた痛みなのだと再確認した。
そんな私たちの様子をつまらなそうに瞥見したラスティ君は、勢い良く椅子に腰を掛け、壁掛けテレビの電源を入れる。
私も見たことのあるこの国では有名なニュース番組が放送されていた。
キャスターと御意見番らしき人物が何かを話している。
『日本では士巳豆内閣が発足し、この国とのさらなる友好関係の構築が期待されます』
『士巳豆現首相は以前から同盟強化を支持していたようですね』
『個人的にもこの国が好きらしいですよ。文化や気候がお気に入りだとか』
心臓がどくん、と大きく音を立てた。
それが一番近くにいるブラッドさんに気付かれないかとひやひやして、余計に焦ってしまう。
士巳豆――…マーメイドプランの資金提供者。
ここの連中に捕まってから、外の情報は殆ど入ってきていなかったけれど…いつの間にこんなことに。
「あーあ、やだやだ。まーた日本での仕事増えるじゃん。政府も僕らを利用しないでほしいよね~」
うんざりしたように頬杖をついてキャラメルを口に放り込むラスティ君は、おそらく士巳豆がマーメイドプランに関わっていることを知らないのだろう。
資金提供者が日本の首相…この国との同盟を強化…不老不死の体を共に研究している、この国と。
あの研究がどんどん大きくなっている。
ジャックは私を裏切った。
私は今、国と密接な関係のある組織に捕まっている。
私には、味方がいない――…。
―――『今日からおれ達は協力者だ、アリス。』
不意に、小麦色の肌をした、狐顔の男の顔が脳裏を過ぎった。
絶望するのはまだ早い。
私にはいる。私をあの研究所から脱出させることに成功した、強力な味方が。
何としてでもここから逃げ出してみせる。
あんな狂った研究の実験材料になんて、絶対になってやらない。
その時、ガチャリと仕事部屋のドアが開いた。
そこに視線を向けると、眠たそうなアランが部屋に入ってきて。
拘束具を外されている私を見てやはり怪訝そうな顔をしたけれど、ブラッドさんを見て納得したように溜め息を吐いた。
そして、私に向かって言葉を放つ。
「見張り役を連れてきた。お前もよく知ってるやつだ」
アランの後ろから現れたのは――ショートカットの黒髪に、青い瞳の女の子。
白いシャツの上に真っ黒なニットカーディガンを着ていて、赤いネクタイと黒スキニーが落ち着いた雰囲気を更に醸し出している。
「本日よりアリスさん専属の見張りを務めさせていただきます、ニーナです」
無表情のまま淡々と発せられた言葉。
開いた口が塞がらない。
受け付けもあるでしょうに、どうしてニーナちゃんなのか。
正直、スパイであったことが発覚している今、会いたくなかった人物だ。
この子は私がスパイだったと知ってどう思っただろう。
考える必要のないことを考えてしまい、私はニーナちゃんから目を逸らした。
すると不意にブラッドさんと目が合って、ブラッドさんは私の疑問を察知したように言う。
「受け付けには他を回しています。君を見張らせるうえで、俺が許せるのはニーナだけなので」
どうやら、見張りをニーナちゃんにしたのはブラッドさんみたいだ。
ここまできてようやく確信できたけれど、私の責任者はおそらくブラッドさんなのだろう。
「さて、仕事だ仕事」
アランが伸びをして自分の椅子に腰を掛けると、ブラッドさんも切り替えるように私から手を離して机に向かう。
もういいのかと思って離れようとすると、ブラッドさんが私の服の裾を引っ張ってきた。
「励ましてください」
「は…?…が、頑張れ…?」
「はい。頑張ります」
小さく嬉しそうに笑ったブラッドさんは、そのまま鼻歌でも歌い出しそうな調子で書類に目を向けている。
意味が分からない…。あんなのでいいのかしら。
ずっといても仕事の邪魔だろうし、私はソファベッドに戻って腰を下ろした。
こちらへ近付いてきて私の隣で止まったニーナちゃんは、黙って姿勢良く立っている。
暫しの沈黙。
書類を捲る音、紙に何かを書き込む音、キーボードで文字を打つ音。
誰も何も喋らない。ニーナちゃんを含めて。
「あの…座ってていいわよ」
「お構いなく。話し掛けないでください」
ずっと立っていても足が疲れるだろうと思ってそう声を掛けたけれど、ニーナちゃんはバッサリそう言い放った。
まぁ、そりゃそうよね…私は敵なのだから、以前のように緊張感のない会話はできない。
「黙々と仕事するのもつまんないし、何か話そうよ。今日は女の子が2人もいるし、いつもと違う感じじゃん?」
しかし、そう考える私とは対蹠的に、まるで緊張感のない様子で提案するラスティ君。
「この状況でわざわざ話すことなんかねぇだろ」
「話すことがなくても話すの!うーん、面白そうな話題といえば……自分のちょっとした弱点のこととかは?」
アランの意見を無視して本当に軽い話を振るラスティ君は、ここに敵組織の女がいるってことをちゃんと理解しているのかしていないのか。
「寒さには弱いです」
「あー、ぶらりん寒がりだもんね。そのうえ冷え性だし」
どうやらこの話はもう始まっているようで、キーボードに文字を打つ手を止めずにブラッドさんが答える。
「ニーナちゃんはー?」
「えーっと…ホラー系の話が少し苦手かもしれません。エリックと一緒にテレビを観ている時にそういう番組をやっていたら消してしまいます…」
「へー意外ー。ニーナちゃんってそういうの真顔で見るタイプかと思ってた。今度僕と一緒に観る~?」
話を聞いていないのか、とつっこみたくなるけれど黙っておいた。
「ラスティ、エリックに殺されるぞ」
「んー、それは困るなぁ。あ、でもえりりんには一度本気で怒られてみたいかも」
「変わった趣味だな。今更か」
「もー。アランに言われたくないし」
「あ?」
「何でもなーい。はい、次アランの番だよ。弱点弱点」
「弱点っつーか…捨て猫とか捨て犬とか、そういうのには弱いな。つい拾っちまう」
「あー、そういや前に仕事先からでっかい犬拾ってきてたよね。今どうしてるの?」
「訓練を受けさせた。6階の奴らの捜査活動に協力してる」
へぇ…これは私にとっては少し意外だ。