マイナスの矛盾定義
「ぶらりんってば、そんなんじゃアリスちゃんに何も聞けないじゃん」
「何故俺以外の人間にアリスの弱みを握らせなければいけないんですか?」
ブラッドさんは真顔のまま、心の底から疑問だとでも言いたげな口調でラスティ君に聞く。
いやいやいや、貴方に弱み握られることも十分問題なんだけど…。
「もー、分かったよ。じゃあ話題変えよー」
ラスティ君は不要らしき書類をシュレッダーにかけながら、渋々といった感じで新たな話題を提示する。
「ん~そうだなー。好みの異性のタイプ…もしくは、過去の恋愛について、とかは?」
そんな話をして何が楽しいのか疑問に思うけれど、私には他にすることもない。
座り心地の良いソファベッドに身体を預け、暇潰しにと耳を傾けた。
「ぶらりんは聞くまでもないか。今も昔もアリスちゃん一筋だもんねー。…あ、でも好意持たれることは多いんじゃない?」
「春と出会った後、実はある女性と関係を持ったことがあります」
「え、マジで?」
聞き返すラスティ君の声音には驚きと高揚が入り混じっていた。
「俺のした仕事によって自分の子供の命が助かったと、わざわざ遠出してこの本拠地まで謝礼を届けに来た田舎の女性です」
「ちょーっと待って?子持ちだったの?…まさかとは思うけど、」
「夫もいたようですね」
「え、関係を持ったっていうのは…」
「向こうから誘ってきました。春にどことなく似ていたので、暫く相手をしてもらいました。あの時はどうしようもなく苦しかったんです。春に会いたくて死にそうでした。その女性を春だと無理矢理自分に言い聞かせ、何度も可愛がりました。でも、結局春本人ではないのだから長続きしないのは当然です。その女性は俺との関係を絶った後、夫との関係もうまくいかず、別れてしまったと聞いています」
これ、真っ昼間からする話じゃないんじゃないかしら…。
「へぇー。っていうかそんな話、アリスちゃんの前でしていいわけ?ほらほら、引いてるよー?」
「もう自分を取り繕うのは止めたんです。汚い部分を隠すこともしません。…彼女は、今の俺を嫌いではないと言ってくれたので」
ブラッドさんの視線が真っ直ぐ私へと向けられる。
少し前から思っていたことだけれど、ブラッドさんって、
「ありのままの俺を受け入れてほしい」
………愛が重い……。
こっぱずかしいことを言っているブラッドさん本人からは一片の照れも見受けられないから、もうどんな反応をすればいいのか分からない。
「だってさー。アリスちゃんってややこしい奴に好かれるよね」
ラスティ君が頬杖をついてニヤニヤしながらこちらを見てくる。
仕事しなさいよ、仕事。
好かれているというか、周りにややこしい奴らがたまたま沢山いるというか…ラスティ君も含めてね。
「アリスちゃんはどういう人が好きなの?」
「…そういうの、よく分からないわ。恋愛なんてしたことないもの」
「アリスちゃん、確かにこの手の話嫌いそうだよね」
「苦手よ。だって愛って複雑じゃない」
「へぇ、どんな風に?」
「愛のある実数、愛のない虚数…」
「へ?」
「複素数の話よ。実数a、bと虚数単位iを使ってa+biと表せて、b=0の場合iが消えて実数になるわ」
「…うん…?」
「それに、iに大小関係はないの。大小関係をつけようとするとどうしても矛盾が生じる。愛に大きさはないのよ」
「………」
「それに、例えば√(-3)を表す時、√3iって書くでしょう。iは√の外じゃない。家族愛だとか何とか言うけど、結局愛は家の外…この国じゃ特にそうね」
「……そう…だね?」
「ぶふっ」
ラスティ君の席の向こう側にいるアランが吹き出すのが分かった。
デスクに突っ伏したかと思えば、肩を震わせて笑っている。
「お前……っ、それ、素なんだな」
どうやら私の真面目な話はこの男にとって相当ツボらしく、声まで震えている。
「じゃあ、俺の車で言ってたあれも素か」
1人納得したように、そして何故か少し嬉しそうに口元を緩ませているアラン。
それとかあれとか、代名詞ばっか使ってんじゃないわよ。
「アリスはいつも可愛いことを言いますね」
「お前正気か…ッ、くっ…苦し…っ、涙出てきたじゃねぇかよ」
アランはブラッドさんの言葉に更に笑いを誘われたのか、デスクをバンバン叩きながら、お腹を抱えて笑っている。
「アリスちゃんもぶらりんも変わり者だよね~」
貴方にだけは言われたくないわ。
反論するのも面倒で、心の中だけにしておいた。
「んー、ネタが尽きちゃったな。ニーナちゃんにはえりりんがいるって分かり切ってるしね」
「そう言うラスティさんはどうなんですか?」
すかさず聞き返すニーナちゃんは、なかなかラスティ君の扱いに慣れているように思う。
あからさまに興味本位で楽しんでいるラスティ君にはあまり触れられたくないのだろう。
「えー僕?恋なんてしたことないな。そういう関係になった女の子もいないし、肉体関係もないよ」
「え…?」
「ちょっとちょっと、何でそんな疑いの目向けてくるのかなー?尋問としてやってやろうとしたことはあるけど、どうしても途中で萎えるんだよね」
「ということはラスティさんは童て…」
「あ~こらこらニーナちゃん?人の性経験について掘り下げるもんじゃないよー?」
貴方が言えた台詞じゃないでしょう…。
と。不意にまたデスクに突っ伏していたアランが体を起こし、
「なぁ。こいつ、拘束外してる時は秘書として使わねぇ?」
急なことを言い出した。
「妙案ですね。何もせずいるのは退屈でしょうし」
「だろ?労働力があるのに使わねぇのも変だしな」
「秘書じゃ待遇良すぎない?下婢、もしくは奴隷ってとこ?」
私を残して話を進めるブラッドさん、アラン、ラスティ君。
この状況で選択権など無いことくらい、さすがの私でも分かっているけれど。
「アリス、早速この書類を番号順に整理してくれますか」
けれど……脱出するチャンスを決して見逃してはならないこの状況で、余計な仕事をしなければならないのは、やはり苦痛だ。
「分かったわ…」
とは言えこの様子じゃ私には拒否権もない。
溜め息混じりに立ち上がり、ブラッドさんから書類を受け取った。
「珈琲淹れろよ、アリス」
この偉そうな態度が最もアランらしいと思うのは、スパイとして秘書をしていた時の名残だろうか。
―――
―――――
夜。仕事部屋の灯りは消され、外のネオンの光だけが差し込んでくる。
秘書として扱われるようになったと言っても、動けるのはこの部屋の中だけなのだから、大した仕事は任されない。
あらゆる雑用をこなしたから、今日はあまり疲れなかった。
私は何もしない方が疲れるタイプの人間なのかもしれない。
「何故俺以外の人間にアリスの弱みを握らせなければいけないんですか?」
ブラッドさんは真顔のまま、心の底から疑問だとでも言いたげな口調でラスティ君に聞く。
いやいやいや、貴方に弱み握られることも十分問題なんだけど…。
「もー、分かったよ。じゃあ話題変えよー」
ラスティ君は不要らしき書類をシュレッダーにかけながら、渋々といった感じで新たな話題を提示する。
「ん~そうだなー。好みの異性のタイプ…もしくは、過去の恋愛について、とかは?」
そんな話をして何が楽しいのか疑問に思うけれど、私には他にすることもない。
座り心地の良いソファベッドに身体を預け、暇潰しにと耳を傾けた。
「ぶらりんは聞くまでもないか。今も昔もアリスちゃん一筋だもんねー。…あ、でも好意持たれることは多いんじゃない?」
「春と出会った後、実はある女性と関係を持ったことがあります」
「え、マジで?」
聞き返すラスティ君の声音には驚きと高揚が入り混じっていた。
「俺のした仕事によって自分の子供の命が助かったと、わざわざ遠出してこの本拠地まで謝礼を届けに来た田舎の女性です」
「ちょーっと待って?子持ちだったの?…まさかとは思うけど、」
「夫もいたようですね」
「え、関係を持ったっていうのは…」
「向こうから誘ってきました。春にどことなく似ていたので、暫く相手をしてもらいました。あの時はどうしようもなく苦しかったんです。春に会いたくて死にそうでした。その女性を春だと無理矢理自分に言い聞かせ、何度も可愛がりました。でも、結局春本人ではないのだから長続きしないのは当然です。その女性は俺との関係を絶った後、夫との関係もうまくいかず、別れてしまったと聞いています」
これ、真っ昼間からする話じゃないんじゃないかしら…。
「へぇー。っていうかそんな話、アリスちゃんの前でしていいわけ?ほらほら、引いてるよー?」
「もう自分を取り繕うのは止めたんです。汚い部分を隠すこともしません。…彼女は、今の俺を嫌いではないと言ってくれたので」
ブラッドさんの視線が真っ直ぐ私へと向けられる。
少し前から思っていたことだけれど、ブラッドさんって、
「ありのままの俺を受け入れてほしい」
………愛が重い……。
こっぱずかしいことを言っているブラッドさん本人からは一片の照れも見受けられないから、もうどんな反応をすればいいのか分からない。
「だってさー。アリスちゃんってややこしい奴に好かれるよね」
ラスティ君が頬杖をついてニヤニヤしながらこちらを見てくる。
仕事しなさいよ、仕事。
好かれているというか、周りにややこしい奴らがたまたま沢山いるというか…ラスティ君も含めてね。
「アリスちゃんはどういう人が好きなの?」
「…そういうの、よく分からないわ。恋愛なんてしたことないもの」
「アリスちゃん、確かにこの手の話嫌いそうだよね」
「苦手よ。だって愛って複雑じゃない」
「へぇ、どんな風に?」
「愛のある実数、愛のない虚数…」
「へ?」
「複素数の話よ。実数a、bと虚数単位iを使ってa+biと表せて、b=0の場合iが消えて実数になるわ」
「…うん…?」
「それに、iに大小関係はないの。大小関係をつけようとするとどうしても矛盾が生じる。愛に大きさはないのよ」
「………」
「それに、例えば√(-3)を表す時、√3iって書くでしょう。iは√の外じゃない。家族愛だとか何とか言うけど、結局愛は家の外…この国じゃ特にそうね」
「……そう…だね?」
「ぶふっ」
ラスティ君の席の向こう側にいるアランが吹き出すのが分かった。
デスクに突っ伏したかと思えば、肩を震わせて笑っている。
「お前……っ、それ、素なんだな」
どうやら私の真面目な話はこの男にとって相当ツボらしく、声まで震えている。
「じゃあ、俺の車で言ってたあれも素か」
1人納得したように、そして何故か少し嬉しそうに口元を緩ませているアラン。
それとかあれとか、代名詞ばっか使ってんじゃないわよ。
「アリスはいつも可愛いことを言いますね」
「お前正気か…ッ、くっ…苦し…っ、涙出てきたじゃねぇかよ」
アランはブラッドさんの言葉に更に笑いを誘われたのか、デスクをバンバン叩きながら、お腹を抱えて笑っている。
「アリスちゃんもぶらりんも変わり者だよね~」
貴方にだけは言われたくないわ。
反論するのも面倒で、心の中だけにしておいた。
「んー、ネタが尽きちゃったな。ニーナちゃんにはえりりんがいるって分かり切ってるしね」
「そう言うラスティさんはどうなんですか?」
すかさず聞き返すニーナちゃんは、なかなかラスティ君の扱いに慣れているように思う。
あからさまに興味本位で楽しんでいるラスティ君にはあまり触れられたくないのだろう。
「えー僕?恋なんてしたことないな。そういう関係になった女の子もいないし、肉体関係もないよ」
「え…?」
「ちょっとちょっと、何でそんな疑いの目向けてくるのかなー?尋問としてやってやろうとしたことはあるけど、どうしても途中で萎えるんだよね」
「ということはラスティさんは童て…」
「あ~こらこらニーナちゃん?人の性経験について掘り下げるもんじゃないよー?」
貴方が言えた台詞じゃないでしょう…。
と。不意にまたデスクに突っ伏していたアランが体を起こし、
「なぁ。こいつ、拘束外してる時は秘書として使わねぇ?」
急なことを言い出した。
「妙案ですね。何もせずいるのは退屈でしょうし」
「だろ?労働力があるのに使わねぇのも変だしな」
「秘書じゃ待遇良すぎない?下婢、もしくは奴隷ってとこ?」
私を残して話を進めるブラッドさん、アラン、ラスティ君。
この状況で選択権など無いことくらい、さすがの私でも分かっているけれど。
「アリス、早速この書類を番号順に整理してくれますか」
けれど……脱出するチャンスを決して見逃してはならないこの状況で、余計な仕事をしなければならないのは、やはり苦痛だ。
「分かったわ…」
とは言えこの様子じゃ私には拒否権もない。
溜め息混じりに立ち上がり、ブラッドさんから書類を受け取った。
「珈琲淹れろよ、アリス」
この偉そうな態度が最もアランらしいと思うのは、スパイとして秘書をしていた時の名残だろうか。
―――
―――――
夜。仕事部屋の灯りは消され、外のネオンの光だけが差し込んでくる。
秘書として扱われるようになったと言っても、動けるのはこの部屋の中だけなのだから、大した仕事は任されない。
あらゆる雑用をこなしたから、今日はあまり疲れなかった。
私は何もしない方が疲れるタイプの人間なのかもしれない。