マイナスの矛盾定義
でも――せめてこの子の震えが止まるまで、どんな言葉でも与えてあげたい。



「貴方は良い子よ」



暗闇の中、ラスティ君の表情に安堵の色が見えた気がした。


この子は多分、私には想像もつかないような何かを抱えてる。


今のこの子は、簡単に壊れてしまいそうだ。


そんなラスティ君を安心させたいと思ってしまう私は――やはりスパイに向いていないんだろうか。








身体の震えが止まった頃、ラスティ君は深呼吸をして寝返りを打ち、私に背を向けた。



「…最悪」


「……」


「みっともないとこ見せちゃったな」


「……」


「運悪すぎ。たまになるんだよね。こういう風に」



自分を責めるようにそう言って、小さく溜め息を吐く。
「…昔の夢を見るんだ。僕達の母親、ろくな人間じゃなくてさ。幼少期はまぁまぁ過酷だったんだよ」



少しだけれど、スパイ活動中アランからも聞いたことがある。


ラスティ君とその妹であるベルちゃんは、親から虐待を受けていたと。


これはその話なのだとすぐに分かった。



「運が良ければ残り物か腐った物を食べさせてもらえた。ベルはすぐお腹を壊してしまうから、そのたび腕を焼かれて、動けなくなるまで殴られてた。あの女は酒を飲むと僕をガス室にギリギリまで閉じ込めた。何度血を吐いたか分からない。あの女は人を殺さずにいたぶる方法をよく知っていた。刺されたことだってある。でも僕は生きることを諦めなかった。1人じゃなかったから」



喉の奥が熱く、苦しくなるような感じがする。


ラスティ君の背中がやけに小さく見えて、酷く泣きたくなった。



「…だけど、あの女はそれすら分かってた。だから僕をベルと引き離して、別々の部屋に閉じ込めたんだ。寒くて暗い部屋だった。必要な時に必要な分だけ扱き使われる日々が続いて、いっそ殺して欲しいと思うようになった」



ぽつりぽつりと。



「でも今、僕は生きてる。隙を見て逃げ出したんだ。ベルと一緒に。当てなんかなかったけど、ベルと一緒ならどこへでも行けるって思ってた。最初はね、この組織を警察と間違えてここへ来たんだ。この建物から漏れる光が救いに見えてさ。警察じゃないって知ったのは保護された後で。能力を買われて、いつの間にかこの組織に所属することになってた」



くすくすと。



「ベルと一緒なら、どこだろうがそこが僕の居場所だって思ってた。でも、僕の居場所は簡単に消え失せた」



ゆっくりと、黒みがかった灰色の煙を吐き出すように。
「僕が死ねば良かったんだ…」



その掠れた声から読み取れるのは、悲歎、憂悶、自分への憤怒。



「………助けてあげられなかったよ」



泣きそうな顔で無理矢理笑顔をつくるラスティ君の表情が、初めて私に見せる“本物”のように思えた。



「呼んでるんだよ、ベルが。僕のことずっと…お兄ちゃんお兄ちゃん、って。ずっと呼んでる。助けてって言ってる」



私がこの子に言えることは何もない。


私はこの子のことを何も分かっていない。


どんな思いを抱えて生きてきたのか、どれ程の痛みを味わったのか。



「復讐しなくちゃ。ベルを救ってあげなきゃ。ベルが早くって言ってる。早く助けてって言ってる。いつも隣で、ずっとずっとずっとずっとずっと…」



“貴方の責任じゃない”。


“辛かったでしょう”。


“復讐で救えるものなんてない”。



どれも、何も知らない人間の無責任な言葉なのではないだろうか。


私にはきっと、この子のことを理解してあげることができない。




「…復讐をして、どうするの」


「ん…?」


「復讐した先に何があるって言うの?」




するとラスティ君は不意にこちらを向いて――これまで見たこともないくらい儚げに、綺麗に、私でも分かるくらいの“本物の笑顔”で――






「――…僕は、ベルに会いに行くよ」



夢を語る少年のように言った。
――どうして。


どうして。


どうして。



ここまで歪ませてしまったの。
「…アリスちゃん?」


「……何よ」


「泣いてるの?」


「泣いてないわ…」


「何で、泣くの。泣いてるの初めて見た」


「…泣いてるのはそっちよ」


「…アリスちゃんだって泣いてる」



ラスティ君は、復讐を終えたら死んだ妹に会いにいくと言っている。


それは即ち―――…。




「“数学の問題は、それ自身で孤立して存在するものではない”」



声を震わせてしまいそうになりながら、精一杯の言葉を吐き出した。



「ドイツの数学者である…ヘルマン・ワイルの言葉よ。貴方の抱える問題は…っ、貴方だけの物じゃない…。それに…今の貴方だって1人じゃない」



はっきり言ってやりたかったのに、嗚咽混じりの、格好悪いくらい弱々しい声音になってしまった。



不意にラスティ君の骨張った手が私の顔に近付いてきて、その指先が頬を伝わる涙に触れた。
本当は言いたい。



“それじゃあ貴方が救われない”と。


“貴方は十分頑張った”と。


“復讐の為に生きたって、貴方が苦しいだけよ”と。



でもそれは――この子の生きる意味を否定してしまうのと同じだ。






ラスティ君は暫くじっと私を見つめた後、



「あーあ。敵組織の女に慰められちゃった」


くすくすと笑いながら少し腫れてしまっている目を擦り、ナイトテーブルの引き出しから小さな鍵を取り出した。



何をするのかと思えば、慣れた手付きでカチャリと手枷が外され――一瞬のうちに脇の下に手が回ってきて持ち上げられ、ベッドへと倒された。


それから私の上に遠慮無く乗ってきたラスティ君は、自分の片手と私の片手を手枷で繋ぐ。



「これで僕から逃げらんないね?」



勝ち誇ったように私を見下ろすラスティ君は、さっきまで泣いていたとは思えない。
「泣かないでよ。僕に同情してるの?可哀想だと思ってる?やめてよね、気持ち悪い」



ハッとして頬を濡らすまだ乾かない涙を拭おうとすれば、その手を掴まれた。



「気持ち悪くて――最高に可愛い。どうにかしちゃいたくなる」



ラスティ君の表情は今まで見たことのある表情の比じゃないくらい恍惚としていて、人が泣いてる時に何考えてんのよ、と涙も引っ込んでしまう。



「ねぇ、僕のこと考えて泣いたんでしょ?…可愛いね。今のアリスちゃん、すげぇエロい」



愉しそうに言って、覆い被さるようにして倒れ込んできたかと思えば、



「……撫でて」



甘えるような声音が至近距離から届いた。



少し躊躇ったけれど、結局ラスティ君の髪に触れ、ゆっくり撫でた。


やっぱりわしゃわしゃしたくなる髪をしている。



「僕が眠るまで、ずっと撫でてて」



そう頼んでくるラスティ君はどこか泣きそうで。



「止めたら殺すよ」



最後に物騒な言葉を残し、意外にもすぐに眠り始めた。



聞こえるのは、時計の秒針の音と――ラスティ君の安らかな寝息。




今だけは。


< 140 / 261 >

この作品をシェア

pagetop